今こそ読みたい本、「ある秘密」
今年も開催されるらしいnote主催の読書感想コンテストに参加してみようと思います。今こそ読んでほしい、この本。というテーマだそうですが、その文言を見て真っ先に思いついたのが、 フィリップ・グランベール「ある秘密」でした。これはフランスの高校生が選ぶゴンクール賞(ゴンクール賞は、フランスで最も権威のある文学賞のひとつ。)にも選ばれた作品です。
パンデミックに気候変動、戦争と物価高騰と、困難が積み重なる2022年にこの作品を選ぶ理由は、本作のテーマにあります。安易に固有名詞を出して語られないそれは、記号としての理解しか持たないわたしたちの心を確実に揺さぶることでしょう。
「ひとりっ子なのに、ぼくには長いあいだ兄さんがいた。」という奇妙な独白で始まるこの小説。主人公はひとりっ子として生まれますが、病弱であるばかりに自らの属性を嫌い、強くてたくましい兄がいるという空想をして現実から逃避します。
しかしある日、ごっこ遊びの世界にのみ存在するはずの兄がほんとうにいたという痕跡を、屋根裏で見つけて……
どんな出来事も淡々と語りつづける語り手に、読み手はヒヤヒヤし、ドキドキし……ひたひたと主人公一家にしのび寄る不幸と、一人の人間には動かしようもない残酷な現実を知るほどに、教育で受けてきた戦争と実際のあいだには質的な違いがあるということに気付かされます。
個人的に興味深かったのは、フランスがナチスの傀儡政権として存在した、「ヴィシー政権」という時代があったことでした。
わたしは傀儡政権についてあまり明るくなく、ウクライナ侵攻が起こるまではどのようにして政権が樹立されうるか、少し懐疑的な面さえあったからです。
日本で戦争といえば、太平洋戦争について語られることが多く、報道もそういったものばかりですから、教わっていない世界の出来事があることに、納得と驚きの両方の感情を味わったのです。
作中、憲兵の目を欺いて逃亡を企てるシーンがあるのですが、文章から有り余るほどの緊張が伝わってきて、開戦したその日にニュースで観た、キーウ市民の嘆きがオーヴァーラップしました。
平和な世界を願いたい、けれどもそれは、広い知識なくしては本来願うことさえできないものかもしれない。そう感じさせる、良い小説でした。
(フィリップ・グランベール「ある秘密」 訳 野崎 歓 新潮社 2005/11)