幕末の日本人が訪れたカメハメハ4世のハワイ
漂流民以外の日本人はハワイに辿り着くことはなかったが、1854年のマシュー・ペリーの日本再訪艦隊により、日本は、日米和親条約を締結し、200年以上続いた鎖国を解く。そして1860年(万延元年)、日米修好通商条約の批准書交換のために派遣されポーハタン号に乗船した徳川幕府の使節団一行77名と、使節団の護衛として派遣された咸臨丸に乗船した勝海舟、福沢諭吉らは、初めてハワイを訪れる。
日本の使節団を乗せたポーハタン号がホノルルに寄港
徳川幕府は1860年(万延元年)、日米修好通商条約の批准書交換のため、新見豊前守正興を正使とする使節団を米国に派遣。一行77名は、米国の提供した軍艦ポーハタン号で日本を出発。途中嵐に遭遇して石炭を使いすぎ、補給のため1860年3月5日~18日の14日間、ホノルルに寄港した。
なお、ポーハタン号は、マシュー・ペリーの日本再訪艦隊に加わり、1854年2月13日に江戸湾へ入港。日本は、全12か条におよぶ日米和親条約を締結し、3代将軍徳川家光以来200年以上続いた鎖国を解く。
1858年7月29日には、日米修好通商条約をポーハタンの艦上で調印。この批准書の交換のためワシントンに赴く日本の使節団を迎えるため、ジョサイア・タットノール代将の指揮の下、再び日本に派遣された。
玉虫左太夫『航米日録』
万延元年遣米使節に記録係として採用された仙台藩士、玉虫左太夫は、ホノルル到着後、中華街で靴を買い、写真屋で自分の写真を映してもらい、印刷所で輪転機を見学し、縫製業を営むイギリス人の家でミシンを観察し、薬局を営む中国人と筆談する。ウクレレ、オルゴール、ピアノの演奏を見る。ガスの製造方法を見学する。ハワイ国王が招かれた米国大使館でのダンス・パーティは深夜まで続いた。以下は、『航米日録』の現代語訳からの引用。
https://www7b.biglobe.ne.jp/~ryori-nocty/koubei-1.pdf
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3月8日の午後、海岸の方に行ったが、途中で6~7歳の子供が自分の所にパンを持って来た。また少し行くと、琴のような音が聞えてくる。しばらく聞いていると、14~15歳の女子が部屋へ案内してくれる。部屋には、40歳位の女性と12~13歳の男子がいた。女子はマッチを持って来て煙草を勧めた。地球図を出して、日本はここにあり、ワシントンはここにある等、丁寧に指し示してくれた。老婦は美しく彩色した糸で花の形に刺繍したものをくれた。風俗・習慣なのであろうか、外国人を疑うこともせず、その家に行くと慇懃に客を待遇し、珍品や奇品は言うに及ばず、自分の寝室あるいは厨房・便所まで公然と他人に見せる。
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市街は碁盤の目の様な配列で、家屋の多くは木材を使用している。諸国民が来て居住し、貿易をしている。女郎屋、劇場が頗る繁盛している。英館、米館、仏館が有り、皆美しい。教会は三箇所有る。山麓に沿って土着人の草葺屋根や粗石を積み重ねた小さな家が有る。その近くに水田があり、殆ど芋を植えている。王の居所は海岸から2~3丁で、長い木竿に国旗を付けて立てて居る。城壁は設置されておらず、広さは2丁程で周囲に塀を築いて三箇所に石門を設け、各門に一人の兵卒を警備として配置。王宮には日本の寺院に似た層楼を建てる。王国の運営・経営は極めて雑で、王宮の外は雑草が茫々としている。
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3月17日の午後、ハワイ国王(カメハメハ4世)が船に来る。艦隊司令官コモドールが国王に別れを告げた答礼であろう。司令官を始め士官全員が装束に身を固め、船上に小砲隊を整列させ、ハワイ国王が来るのを待った。ハワイ国旗を高く掲げて音楽を演奏し、且つ祝砲を鳴らす。船上にて司令官を始めとする士官全員が帽子を脱ぎ、国王と握手。国王を司令官室に案内し、2時間程で国王が帰る。そのとき又小砲隊を整列させ、祝砲を鳴らし、ハワイ国旗を降ろす。国王は30歳位で色黒く、衣裳は至って粗末。赤色の羅紗のみで装飾は無い。従者は20人程で、全員美装。従者の中に、年齢55~56位で町奉行を務める国王の父、35~36歳になる国王の兄(後のカメハメハ5世)が居た。国王は、王族の中から選定する。王の名前は「カメハメハ」、皇后の名は「エンマ」。ハワイ国開闢以来わずかに四世しか経っていないとの由。
咸臨丸はホノルルに4日間、寄港
勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎らが乗船した咸臨丸は、日米修好通商条約の批准書交換の使節団の護衛として、米国軍艦ポーハタン号の4日前に出港し、38日でサンフランシスコに到着。復路は1860年4月3日~6日の4日間(実質3日間)、ホノルルに寄港。
勝海舟『海軍歴史 咸臨艦米国渡航』(1888年=明治21年)
勝海舟は、『海軍歴史』の中で、寄港したサンドウイス(ハワイ)諸島について詳しく紹介している。ハワイ滞在は実質3日間で、王宮、議政館、囚獄、学校を訪れた。4日間の滞留では、その風土政教を詳案できないので、参考として西洋人がハワイについて記した書からの抄訳を加えている。以下は、勝海舟『海軍歴史 咸臨艦米国渡航』(1889年)からの引用。
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6日、当国ミニストルの案内を以って一同王宮に到り国王に謁見す。その礼、簡易にして極めて慇懃なり。王名はカメハメハ(四世)、土人種なれども状貎雄偉にして儼然国王の偉容そなわれり。式了りて懇話あり。また言わるるよう、明年は予日本皇帝を訪問し貴国に到るべしと。又机上に陳列したるもろもろの珍宝を観せらる。
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この島外国の事務を司る官長は多く外邦人を使用す。なかんずく米利堅人多くこれその国民広く外蕃に通ぜざるを以てその機務宜しきを失し、また土人多くはその性情澹泊魯鈍なるが故にその使用に当任する者少なきに因り、また島民少なく武威振わざるを以て、英国あるいは米利堅国の格外保護に倚らざれば外患の恐れ無きこと能わざるが故か。
⇒現代語訳:この島の外国事務を担当する長官は、多くの外国人を雇っている。特にアメリカ人を多く雇っているが、これは島民が広く外国の事情に通じていないため、重要な職務を適切に遂行することができないからだ。また島民の多くは性格的に淡白で鈍重な傾向があるため、そうした役職に適任な人材が少ないことにもよる。さらに島民の数が少なく、軍事力が十分でないため、イギリスやアメリカの特別な保護に依存しなければ、外部からの脅威を防ぐことが難しいからではないか。
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一夜この地学校中に在る生徒の試学を見る。その式はなはだ異様なり。市中大学校なきを以て、仮に寺院を以てその場とす。これを聴くもの老若、男女、貴賤の差別無し。すでに昨夜王妃殿下また来りてこれを望めり。
正面一高台あり。前は低くして数机を設け聴者の座とす。又この後際、一楼あり。ここにも聴者数人あり。生徒一人正面に出でてその学びしところの学術中かねて科目を定め、無本を以てこれを講説す。一人終ればまた一人出でて講明するところ前の如し。かくのごとく為しつつ三、四人終りしごとに幼女五、六人あるいは七、八人みな一様白色の衣服を穿(うが)ち続き出でて胡琴を弾じ、あるいは歌う。終ればまた生徒出ず。かくのごとく為すゆえに聴者倦労無く、しかも自ら種々の道理を会得し、また説者も衆多の聴者なるをもって励みてその所説詳明ならしめんとす。これ両(ふたつ)ながら裨益少なからざるがごとし。
この試学は必ずその日を定め、その説くところ学術の科目ならびに講者の姓名、年齢などは一紙に植字し、これを聴者に分ち与う。たいてい一夜七、八人にて終る。
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咸臨丸が5月6日、品川湾に帰着した後、1860年5月26日付と9月3日付の2度、ホノルルのウイリー外務大臣から勝麟太郎艦長へ書翰が届いた。5月26日付の書翰には、次のように書かれていた。
「明年、わが王女、王と共に貴国の高大なる皇帝を訪いてその好意を確知し、以てかくの如く天恵によりて相比鄰せる両国、久しく親懇の交りを結ばんと欲することを略々決定したり。日本人とハワイセン人は世界の造物主の甚だ相近して造る所なれば、兄弟の如く相愛せずんば非ず。」
(訳:西周助、堀辰之助)
産経新聞2016年8月2日記事
渡米の勝海舟一行がオバマ氏母校を視察、坂本龍馬記念館調査で判明 福沢諭吉、弁論の重要性学ぶ?
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幕末に咸臨丸(かんりんまる)で渡米し、帰国途中にハワイに寄った幕臣の勝海舟らが、オバマ米大統領の母校の弁論風景を視察していたことが、高知県立坂本龍馬記念館の調査で分かった。当時、咸臨丸には福沢諭吉も乗船していた。同館は「諭吉の教育論に影響を与えた可能性もある」としている。
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海舟の著書「海軍歴史」によると、1860年5月25日夜、ハワイの学校の授業風景を視察。生徒が1人ずつ前に出て弁論し、数人が終わると、幼い子供たちが出て楽器の伴奏で歌い、また弁論が繰り返される授業内容を記していた。海舟は「聞く者はあきることなく、弁論する者も利益は少なくない」と評価したが、学校名の記述はなかった。
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同館では、過去にハワイで開催した龍馬フォーラムの参加者の協力を得て、当時、捕鯨船員向けに発行された新聞(コピー)を、保管していた私立の幼稚園から高校までの一貫校「プナホウスクール」(ホノルル市)から入手。渡米に同行したジョン万次郎を紹介する記述があったほか、海舟の視察した日時や授業内容と一致するプログラムについての記述が見つかった。
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当時の同校の教室を撮影した写真も見つかり、生徒の席が前にいくほど低い構造となっていたことなども海舟の記述通りで、同館は「(視察先が)プナホウスクールではないかとする説はあったが、今回の資料で裏付けられた」としている。
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プナホウスクールは、1840年代に設立された名門校で、オバマ大統領の出身校として知られる。海舟は弁論風景について「甚だ異様」と驚いていた。福沢諭吉が弁論風景視察に同行していたという記述はないが、同館の前田由紀枝・学芸課長は「オバマ大統領の出身校で、諭吉が弁論や討論の重要性を知ったとすれば、興味深い」と話している。
福沢諭吉のハワイ紹介記事
咸臨丸に乗船してハワイを訪問した福沢諭吉は、日記をつけていたのかもしれないが、それは公表されていない。しかし、後に発表した著書でハワイを紹介する記事を何度も書いている。
福澤諭吉『西洋旅案内』(1867年=慶應3年)
サンドヰチは日本と亜米利加との中程にて、少し亜米利加の方(かた)へ近き所にある島国なり。一体此辺は熱国(ねっこく)の場所柄なれども、其割合にしては凌(しのぎ)よし。産物は硫黄、砂糖、綿、煙草、芋の類、其外小麦も出来る由(よし)なり。
今より88年前、英吉利船将カピタンコック(キャプテン・クック)といふ人、初て此島を見出し、其節は島人の数30万人もありし由なれども、其後(そののち)年々鯨猟(くじらりょう)に出(いで)て帰らざる者もあり、又は疱瘡など流行病(はやりやまい)にて人の数追々に減じ、当時は10万人にも足らざる位なり。されども島に王あり。其家の名をタメハマハ(カメハメハ)といふ。住居(すまい)はホノルルといへる港にあり。矢張王国の格式にて、既に西洋の国々とも條約を取結べり。政事向並に年貢の取立方等は亜米利加人に頼み、島国とて世間に慢(あなど)らるることもなし。殊(こと)にこの島にては、多年外国人に附合、追々に物事の道理を知て、近来は所々(しょしょに学問所を建、英吉利の語(ことば)を稽古せり。
島人(しまひと)の風俗は甚だ見苦し。色も黒く、大抵跣足裸体(すあしはだか)、住家(すまい)とて床(,ねだ)もなき小屋掛なり。斯(こ)う穢(きたなき)き島人の中(うち)にも売女(ばいじょ)あり。10人は10人、皆あしき病(やまい)のある由にて、一目見ても驚くほどの品物(しなもの)なり。旅行の人、固(もと)より心得違もあるまじきことなれども、用心すべし。
福澤諭吉『世界国尽(せかいくにづくし)』(1869年=明治2年)
太平州
太平海(たいへいかい)の島々は幾千百の数知らず、亜細亜洲の南方に海岸ちかく群がるは「須磨多羅(スマトラ)」「保留根尾(ボルネオ)」「爪哇(じゃわ)」「瀨禮部須(セレベス)」「呂宋(ルソン)」「須湃洲(スパイス)」「新銀名(ニューギニア)」。西欧諸国支配の地、赤道ちかき暖帯に生じて余る産物を、遠くたづさえ本国の衣食に供へ富を足し、富国利用の経済は、万里の浪もおそれなく、地理の学問、航海の術を研がしき文明の勇と知識の功ならん。(中略)
「新地蘭土(しんじいらんど=ニュージーランド)」の北東(きたひがし)数千の島を通り越し赤道越えて北の方(かた)、「山土逸地(さんどいっち)」の島々は人口僅(わずか)7万人、土地は狭くも独立国、「太平海」の北方に独(ひとり)はなれし地理を占め、鯨猟船(げいりょうせん)の寄処(よりどころ)、「王風島(おうふうじま=オアフ島)」の「花瑠々(はなるる)=ホノルル」は島に一(ひとつ)の交易場(こうえきば)、「英」「亜」諸国の船も入り、いると出(いづ)るの商売に、土地も次第に賑ひけり。
山土逸地(さんどいっち)は1778年「かぴたん・こっく」の見出せし島にて、同人は此島人に殺されたり。人の住居する島の数8あり。王風島の隣りなる「はわい」は一ばん大ひなる島なり。火山多し。産物は砂糖、小麦、綿、煙草など、沢山なり。
挿絵:ハワイ島 火山の絶頂の景
福澤諭吉『文明論之概略』(1875年=明治8年)
福澤が咸臨丸でホノルルを訪れたのは1860年。本書ではインドの役人採用試験は英国で施行され、アメリカインディアンは白人に追われ、ハワイ人は白人の奴隷となった等の例を示し、外国と交際しても大風雨に耐えられる日本の独立を保つため、文明を発展させようと説く。
以下は齋藤孝訳の現代語訳『文明論之概略』からの引用。
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サンドウィッチ島は、1778年にイギリスのキャプテンクックによって発見され、その「開化」の速度はまわりの島と比べて最も速やかだったという。しかし、発見当時、30~40万人いた人口が、1823年の段階ではわずかに14万人を残すだけとなっていた。50年間でこれほど人口が減少したのだ。
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人口の増減にはさまざまな原因があるだろうから、それは直接問題にはしない。しかし、開化とはいったい何だったのか。ただ、この島の人民が人肉を食うなどの悪しき習慣を止め、白人のよい奴隷となったというだけのことだ。ヨーロッパ人の進出するところでは、土地は力を失い、人種を滅ぼすこともある。
福澤諭吉『福翁自傳』(1899年=明治32年)
サンフランシスコを出帆して、今度はハワイ寄港と定まり、水夫はニ、三人アメリカから連れて来たけれども、カピテンのブルックは居らず、本当の日本人ばかりで、どうやらこうやらハワイを捜し出して、そこへ寄港して三、四日逗留した。ハワイの風俗については物珍しく言うほどの要用はないだろう、と思うのは30年前のハワイも今も変ったことはなかろう。その土人の風俗は汚ない有様で、一見蛮民と言うより外(ほか)仕方がない。王様(カメハメハ4世)にも会うたが、これも国王陛下と言えば大層なようだけれども、そこへ行ってみれば驚くほどのことはない。夫婦連れで出て来て、国王はただ羅紗の服を着ているというくらいなこと、家も日本で言えば中ぐらいの西洋造り、宝物を見せるというから何かと思ったら、鳥の羽で拵えた敷物を持って来て、これが一番のお宝物だと言う。あれが皇弟か、その皇弟が笊(ざる)を提(さ)げて買物に行くような訳けで、マア村の漁師の親方ぐらいの者であった。
1860年~1899年のハワイと日本
福澤諭吉は『福翁自傳』(1899年=明治32年)の中で、「30年前のハワイも今も変ったことはなかろう」と語っているが、福沢がハワイを訪れた1860年から、この著書を発行した1899年までには、日本とハワイの間に様々な出来事があった。
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勝海舟、福澤諭吉らが謁見し、彼に「来年は日本皇帝を訪ねる」と伝えたカメハメハ4世は1863年に死去。
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4世の兄であるカメハメハ5世は1864年、カウアイ島のサトウキビ農園主でもあった外務大臣ロバート・ワイリーの勧めもあり、農園の労働力不足に対応する組織として移民局を創設。1865年4月7日、ワイリーは駐日ハワイ総領事にユージン・ヴァン・リードを任命。ヴァン・リードは日本でハワイ移民の募集を始め、1868年5月17日、明治新政府の許可を得られぬまま、約150人の日本初のハワイ移民を帆船サイオト号に乗せて横浜を出航。
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明治新政府は1871年8月19日に日本ハワイ修好通商条約を調印。
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1881年3月、カラカウア王は世界一周旅行で日本を訪問。明治天皇と会談し、東洋諸国連盟の結成、日本人移民の要請、日本とハワイを結ぶ海底電線の敷設、姪カイウラニ王女と山階宮定麿王との縁談を提案。
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明治天皇と日本政府へのカラカウア王の提案のほとんどは翌1882年、勅使の長崎省吾がハワイを訪れ、断りの返事を王に渡すが、日本人移民の再開は実現する。
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1885年1月27日、最初の官約移民が長浦港を出航。
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1893年1月16日、公安委員会はアリイオラニ・ハレを占拠し、臨時政府を樹立。ハワイ王制の廃止を宣言。
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1894年6月28日到着の第26回渡航船・三池丸でハワイに渡航した1524人が最後の官約移民となる。官約移民の総計は2万9139人。翌日、728人の私約移民を乗せた愛国丸が到着。7月4日、ハワイ臨時政府はハワイ共和国を樹立。
1898年7月6日、アメリカ合衆国は、ハワイとの合併条約を上下院が賛成多数で可決し、翌日の大統領署名で成立。
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一方、朝鮮半島での勢力争いから始まった日清戦争は、1894年11月に日本軍が旅順港を占領し、翌1895年2月に黄海と渤海の制海権を掌握すると、清国が戦意を失い4月17日に講和が成立。清・朝の宗藩関係解消、清から日本への領土割譲(遼東半島・台湾・澎湖列島)、賠償金支払い等が決定。
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福澤諭吉は、『文明論之概略』(1875年=明治8年)では、ハワイ王国と危機感を共有する発言をしていたが、1895年に日清戦争に勝利し、遼東半島・台湾・澎湖列島を清から割譲されるなど戦勝気分に沸く日本の情勢下、『福翁自傳』での福澤諭吉のハワイへの発言は、上から目線になってしまったのではないかと私は推測する。