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ジャック・ロンドンの旅①日本、北米横断、アラスカ、ロンドン、朝鮮、ハワイ
ハワイに関わった英米の作家として、ハーマン・メルヴィル、マーク・トウェイン、イザベラ・バード、ロバート・ルイス・スティーヴンソン、ジャック・ロンドン、サマセット・モームが挙げられる。このうち、村上春樹が強い影響を受けたジャック・ロンドンの生涯とハワイとの関わりについて、ラス・キングマン著・辻井栄滋訳『地球を駆けぬけたカリフォルニア作家 写真版ジャック・ロンドンの生涯』および南太平洋を舞台とするジャックの作品を要約する形で紹介したい。
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妊娠した妻に夫は中絶を要求したが、妻が断わると家から追い出した。妻は絶望し自殺を図るが未遂に終わり、友人宅に保護された。ジャックは1876年1月12日に生まれると、アフリカ系アメリカ人女性に預けられ愛されて育つ。一方、実母にとって彼は恥辱の印で、愛情を注ぐことはなかった。
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1876年9月7日に母はジョン・ロンドンと再婚。義父と連れ子(義姉)エリザは、ジャックに愛情を注ぐ。彼は、最初の学校に通う頃から本に興味を示し、先生に借りた『アルハンブラ物語』で本の世界に目覚めた。1885年にオークランドに転居すると、公立図書館で借りた歴史や冒険物の本を朝昼晩の区別なく読んだ。
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不況が続き一家が再び貧困地区に引っ越すと、読書時間は無くなり、新聞配達をしたり、けんかの仕方を覚えたり酒場に出入りして、不良少年になった。学校を卒業すると缶詰工場で働いた。仕事に出かける時も帰る時も暗く、一本調子に漬物を瓶に詰める作業を夜遅くまで続けたが、給料は母が持っていった。
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貧困と苦労の反動で、ジャックは乳母から借りた20ドルでスループ帆船を買い取ると、船に乗りこみ、錨をたぐりこんで出帆し、サンフランシスコ湾へ間切った。帆走の刻一刻が大好きで、その熱意は失わなかった。サン・マテオ沖の養殖場から牡蠣を盗んで売り捌き、酒場で羽振りを利かせた。
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しかし「海賊船の巡航」という本の警察のパトロール船に追いつかれる場面を読んで、牡蠣泥棒の末路を知ると、今度は密漁巡視官代理の仕事に就いた。給料は出ないが、捕らえた漁師に課す罰金の半分が手に入る。牡蠣泥棒の多額の金とは比べものにならないが、まっとうな仕事で、船乗りのままでいられた。
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17歳のジャックは、酒場でアザラシ狩り船団の船長やハンターと親しくなり、日本へ向かう『ソフィア・サザランド』号の年季契約にサイン。小笠原諸島と横浜に寄港後、日本の北部沿岸~ベーリング海での100日間のアザラシ狩り。襟裳岬沖では台風に遭遇したが、舵輪をとったジャックは見事に切り抜けた。
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帰国したジャックは、時給10セント1日10時間労働の黄麻工場で働いた。この頃、新聞社の写生文コンクールに「日本沖合での台風」を応募し、1等賞金25ドルを得た。職場を電気鉄道の発電所に変えたが、1日12~13時間労働の月1日休みで月給30ドル。前任者の月給が40ドルと知り、辞めた。
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ジャックは、失業者に道路建設の仕事を提供する法案を議会で通すためワシントンまで行進するコクシー産業軍に加わる。途中で軍と別れ、ミシガン湖畔の親戚を訪ね、ナイヤガラ瀑布に魅了されていると、放浪罪で逮捕され刑務所で30日間の服役。ニューヨークなどを経てオタワから貨物列車で西海岸へ戻る。
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放浪中、体力が衰えて馘になった肉体労働者から話を聴いたり、保護装置のない機械で腕や脚を失って解雇された人たちを見た。教育があるのに既成概念に異議を申し立てて社会にいられなくなった人たちにも出会った。社会の「わな」から逃れるには教育を受けなければと考え、オークランド高校に入学した。
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ジャックは高校の用務員の仕事で自活する一方、高校の機関誌に「小笠原諸島にて」など8編を寄稿したが、教師へのイライラから独学に戻る。市役所前広場で社会主義者や労働者階級の思想家たちが喋る話を聴いてハーバード・スペンサーを知り、自身も夜ごと群衆に喋り立てるようになった。
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ジャックは自室に閉じこもり、友人の手助けで1日19時間の詰めこみ勉強をし、カリフォルニア大学バークレー校の試験に合格するが、金銭的事情で退学を余儀なくされる。1897年7月14日、アラスカのクロンダイクで金を採掘した男たちがサンフランシスコに停泊した船から上陸すると、数千人が北へ向かう。
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ジャックと義兄は7月25日に出発。10月12日からヘンダーソン・クリークで試掘を行い金の鉱床を発見すると、11月5日にドーソン市で払下げ請求地第54号を登録。しかしジャックは翌年5月、パン、豆、ベーコンだけの生活を続けたため壊血病になり歩くことも困難になったので、6月8日にアラスカを去る。
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義父は前年に亡くなり、母と義姉の子を養わなければならないが、仕事が見つからない。ジャックは様々な作品を書いて出版社に送ったが、原稿は不採用紙片を添えて送り返されてくる。それが何カ月も続いた後、黒猫誌から「四千語の物語を半分に削るなら40ドルを送る」との返事が来た。
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1899年1月、ジャックは郵便集配人採用通知を受け取るが、母の「執筆に打ちこんでは」の一言で、作家の道を選ぶ。友人への手紙に「僕は人間を崇拝してきたが、人間がどんなに卑しくなるかを知った。それでも人間を尊敬する。誰と出会おうが共鳴したいと思う欲求のために随分と難儀にあったよ」と書く。
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1900年、最初の結婚をし、2人の娘を設ける。1901年、市長選挙に社会民主党公認で立候補するが落選。1902年、ロンドンのイーストエンドの貧民窟へ向かう。貧窮した水夫として、老齢や病気や事故によって仕事を見つけられなくなった人々と生活を共にし、あるがままに書いた『どん底の人々』を仕上げる。
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1903年1月完成の『野性の呼び声』は、アラスカ・クロンダイクでジャックが仲良くなった犬を主人公に、彼の人生経験を重ね合わせた物語。温かいカリフォルニアから凍てつく荒野に移されたバックは、適者生存の野性の掟に適応し、主人の死とともに、文明との絆を絶って狼の群れに加わる。
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7月にジャックは妻と別居し、チャーミアンと親交を深めた後、10月から2カ月に及ぶスプレイ号の航海に出て『海狼』を完成。1904年1月、新聞記者として日露戦争を取材するため日本へ向かう。横浜、神戸、長崎を経て、門司から船に乗り朝鮮半島の西海岸を仁川へ。さらに馬に乗り平壌の北・順安に至る。
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しかし、軍に拘束されソウルへ送還。5月、他社の特派員とともに軍に同行し、鴨緑江決戦の一部を見るが、その詳細を打電することは許されなかった。鴨緑江を渡り、鳳凰城でキャンプを設営し、軍に行動の自由を求めると逆に行動は限定された。6月、拘束の多い取材に飽きあきしたジャックは、帰国する。
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帰国後、妻は離婚訴訟を起こした。日露戦争の記事19篇への報酬4千ドルで妻と2人の娘が住む地所を買い、家を建てることにより離婚が成立すると、ジャックは翌日チャーミアンと結婚。1905年の2度目の市長選挙、著書『階級戦争』、全米講演旅行は社会主義の先導者としての悪名を高めた。
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「穴居人の(原始)時代以来、人間が食べ物や隠れ家を手に入れる能力は、1千倍も伸びた。素晴らしい考察や驚くべき発明品が生み出され、農業や採鉱や製造や輸送や通信の能力を、とてつもなく伸ばすのに役立った。それなのに何百万人もの近代人の暮らしが、穴居人の暮らし以上に悲惨なのはなぜなのか?」
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「これが革命家が経営者階級に問う疑問点である。なぜ合衆国の1千万人の人々は、食べ物や住まいを手に入れられないのか? なぜ合衆国では、織物工場だけでも8万人もの子供たちが働いて子供時代を無にしているのか? 富が不足しているのは、資本家階級の管理の仕方が無駄で不合理だったからなのだ」
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1906年4月18日の朝5時15分、北部カリフォルニアの人々は大地震に揺り起こされた。グレン・エレン滞在中のジャックとチャーミアンは馬でソノーマ山に登ると、サンフランシンスコとサンタ・ロウザから、もうもうたる煙が昇るのが見えた。2人は12時間後、壊滅状態の街をさまよい歩いた。
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「湾の外は、風が吹いていなかった。それでいて東西南北から強風が運命の街に吹いていた。立ち昇る熱気が、ものすごい吸引力を生んだのだ。夜にはダイナマイトで建造物の多くをつぶしたが、炎が突き進んでくるのを持ちこたえられなかった。何万人もの人たちが避難したが、みんな親切で礼儀正しかった。
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サンフランシスコの急勾配の丘を何キロにもわたってトランクが引きずられた。至る所にトランクがあり、疲れ切った男女の持ち主たちが横になっていた。ついには疲労困憊の余り、何千人の人々が自分のトランクを捨てねばならなかった。通りの真ん中で、ホテルのトランクを積み上げた運搬車が燃えていた」
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1905年の夏、ジャックとチャーミアンはヨットで世界一周する計画を話し合った。大地震で船の建造は遅れ、スナーク号は1907年4月23日、ホノルルへ出帆。しかし船は試運航後の事故で水漏れがひどく、真珠湾到着後に再建することになり、2人は5カ月間ハワイでの休暇を楽しむことになる。
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ハワイ准州のジャック・アトキンソン知事代理をはじめハワイの人々は、ジャックを歓待した。6月2日、ジャックはアレクサンダー・ヒューム・フォードからサーフィンを習い、上達したが、日焼けで苦しんだ。当時、サーフィンというスポーツは知られていなかった。それどころかハワイの魅力の大半は、世界に知られていなかった。
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ジャックの著作とフォードの努力で、サーフィンの人気は増し、ホテルが建ち、ハワイはアメリカ人の安息所となった。ジャックは、ハワイを世界のスポーツセンターの一つとして描き、サーフィン復興運動に参加するようスポーツマンたちに呼びかけ、フォードが組織したアウトリガーカヌークラブの活動に協力した。
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ハワイ准州衛生局長ルシウス・ユージン・ピンカムは、モロカイ島のハンセン病患者収容所への偏見を無くしたいと考えていた。不安が広がったのは、ハワイの人々がこの病を理解していないからだ。新聞も人騒がせな記事を書くばかり。ジャック・ロンドンの話なら人々は耳を傾けるだろうと考えた。
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そこで、モロカイ島に渡ってハンセン病患者たちと1週間暮らし、体験記を書いてくれないかと打診したところ、ジャック以上に行きたがったのはチャーミアンだった。7月2日に船で到着したカラウパパは、800人の患者自身が管理する村。2人は患者たちと自由に交わったが、彼らは幸せな生活を送っていた。
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7月4日(独立記念日)は、着飾った人々が馬やロバで跳ね回り、ブラスバンドが演奏し、競馬や歌合戦やダンスを楽しんだ陽気な1日だった。射撃場の銃は共有で、医師は石鹸で手を洗い、服を着替えるだけ。ジャックは、ハンセン病の本を読み、医師たちと語りあった後、体験記を米国本土の雑誌に寄稿した。
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モロカイ島から戻って数日後、2人はジャック・アトキンソンの案内で、マウイ島のハレアカラ山の牧場と噴火口、ナヒク・ディッチ・トレイルを楽しんだ。8月15日からはハワイ島に滞在し、ワイメアのパーカー牧場、コナのコーヒー農園、キラウエア火山、ワイナクのサトウキビ用水路などを訪れた。
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ジャックらは10月7日に修理が完了したスナーク号でハワイ島ヒロを出帆。エンジンは故障し、風に頼るしかなかった。まずは東へ。北東貿易風の南側に抜け、変向風に乗って西経126度まで進み、赤道無風帯を横切って南へ向かい、さらに南東貿易風で西へ。12月6日にマルケサス諸島のヌクヒバ島に到着した。
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「何千匹ものカツオの群れが船についてきた。スナーク号に平行して泳ぎながらトビウオに襲いかかる。トビウオの飛翔には生死がかかっている。海鳥がトビウオをとらえそこなうと、その下ではイルカが、トビウオが海へ戻るのを凝視している。トビウオが船に落下すると、僕らは拾い上げてむさぼり食った」
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