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他人を推す危うさ 自他の境界をなくす人々
推し文化の台頭とその影響
近年、「推し」という概念が社会全体に浸透し、多くの人々がアイドル、俳優、アーティスト、VTuber、インフルエンサーなど、さまざまな対象に熱中するようになった。推し活は娯楽の一環であり、楽しむものだ。しかし、その推しへの熱中が「自他の境界」を曖昧にし、推しと自己のアイデンティティが混同される現象も増えている。
推しの成功を自分の成功のように感じる。推しの苦境を自分のことのように受け止める。推しを応援することで生きがいを見出し、推しがいなければ自分の存在意義を見失う。こうした現象は、推し文化の光と影を同時に映し出している。本稿では、推しと自己の境界が曖昧になることの危うさを探り、推し活との健全な関係を考察する。
「推し」と自己投影の関係
推しは自己の延長なのか?
推しを応援する行為は、しばしば自己の価値観や理想を投影する行為と結びつく。推しが成功すれば、自分も何かを成し遂げたように感じる。逆に、推しが批判されると、自分自身が攻撃されているような感覚に陥ることもある。
推しの成功を誇りに思い、推しの思想を自分の信念として受け入れる。これはファン心理として自然な流れだが、度が過ぎると「推しの価値観=自分の価値観」となり、推しの考えを無条件に正しいものとして受け入れてしまう。そうなると、推しが間違ったことをしても、それを認められなくなる。
他者と自己の境界が曖昧になる瞬間
推しの発言や行動に過度に影響されることで、「自分の意見を持たなくなる」状態が生まれる。推しが支持するものを盲目的に支持し、推しが批判するものを無条件に批判する。自分の意見よりも推しの意見が優先され、自我が希薄になっていく。
SNSの発達により、推しの情報がリアルタイムで更新され、ファンとの距離が近づいたことで、この現象はさらに顕著になった。推しの「いいね」一つで一喜一憂し、推しとの間に「疑似的な関係」を築いているように錯覚する。実際には一方的な関係であるにもかかわらず、推しが自分を認識しているかのような錯覚に陥るファンも少なくない。
推しのために自己犠牲を払う危うさ
経済的負担の増大
「推しに貢ぐ」文化が広がる中で、多くの人がグッズ購入、イベント参加、課金といった形で推しを支える。しかし、その支出が生活を圧迫し、経済的に厳しい状況に陥るケースも増えている。
一部のファンは「推しのためならば」と無理をし、生活費を削ってまで推しに投資する。推しが新しいグッズを発売すれば、どれだけ高額であっても購入し、推しが出演するイベントがあれば、遠方であっても駆けつける。こうした行動がエスカレートすると、推しの存在が自己の生活そのものを支配するようになってしまう。
感情の支配と自己喪失
推しの発言や行動に強く依存しすぎると、推しの不祥事やスキャンダルに直面した際に、精神的なダメージを受けやすくなる。推しが活動を休止したり、引退したりすると、「自分の人生が終わったように感じる」と語るファンもいる。
推しがいなくても、自分の人生には価値がある。しかし、推しに強く依存しすぎた場合、その価値を見出せなくなってしまう。これが「推しと自己の境界が曖昧になった人々」の最大の危うさである。
他者との境界がなくなることの危険性
推しを通じて「自分の意思決定を委ねる」人々
推しの意見に従い、自分の考えを持たなくなるケースもある。推しが支持する政治思想、推しが好むファッション、推しが愛する食べ物——それらを「自分のもの」として受け入れること自体は問題ないが、それが推しの影響による思考停止である場合、危険を伴う。
コミュニティの同調圧力
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