目を覚まして生きるということを思い出すために、今ここにきた
目覚めて生きる、眠って生きる。
目覚めや眠りって、最近よく聞く言葉かも知れません。
あなたは目覚めていますか?眠っていますか?
改めて聞かれると、どうだろう?って思うかも知れません。
これは単に好きなことをやっているか?というような感覚的なものではなくて、もう少し根本的な在り方のことだと思います。
目覚めと眠り・・・漢字の作りからしても目覚めは「目に覚える」。対して眠りは「目に民」。
覚なのか民なのか?
この漢字の違いからもイメージが湧くと思います。
目が覚めているとは、この世界をあらしめているのもわたしなのだ、という世界観。
眠っているとは、この世界の中にいるのが私なのだ、という世界観。
眠ってしまうと、世界に取り囲まれたような感覚に陥ってしまう。
しかし、目覚めていると世界そのものがわたしなのだという主体感が浮かび上がってくる。
そういう違いがあるのだと思います。
よくよく考えると、この世界を観じているわたしという存在は唯一無二で、他の誰かが取って代われるものではありません。
そして、このわたしが見たいもの、聴きたいもの、感じたいものが知覚に上がってきているはずです。
そのひとつひとつがわたしと繋がった存在。
目覚めて生きれば、万物との繋がりも深く、強くなっていきます。
広い広いこの世界の中にポツンと私がいたんだ・・・という感覚は後から創作した二次的な自分で、はじめに在ったのは世界としてのわたし。
もう一度、思い出すという意味で、覚えていく必要があります。
目を覚まして生きるということを、思い出すために、今ここにきたのかも知れません。
やりたいことがわからない、ないのかも・・・と悩んでしまう理由もきっとここにあります。
特に、これをやりたい!というより、魂が目覚めたがっているから!
だから、無理にやりたいことを見つけ出す必要はないし、そのままで良いと思います。
この世界の感じ方、観じ方を新しいバージョンに変えていくこと。
それが本当にやりたいことなのです。
見方が変わると、本当に世界は変わります。
そういう体験を重ねて行くためにも、お試しのような感じで動いてみることが大切ですね。
その結果から、感じる新たな感覚。
目覚めのシグナルは至る所に溢れています。
そして、その同士もたくさんいます。