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古代史と温泉の旅 〜徳島・香川<後編>


さて祖谷温泉でほっこり1泊したあとの翌日は、
香川県に戻り、弥生時代中〜後期につくられた高地性集落の遺跡へ。
その代表的な遺跡が「紫雲出山(しうでやま)」山頂(352m)にあります。
またまたうねうね道。うゲェ(笑)。

着いたとたんこれはすごい!瀬戸内海の島々が見晴らせる絶景。美しい!
さすが国立公園!
そして航行する舟を見張るには絶好の場所でした。
ただ、ふと考えました。
飲料水の確保も難しい、こんな高地になぜわざわざ集落を作ったのかな?と。

紫雲出山からみた瀬戸内海(遠く瀬戸大橋も見える)
紫雲出山遺跡の再現


遺跡からは大量の石鏃などが見つかり、また瀬戸内海随所にのろし台や見張り台などが設置されていたことから、かつて「これは倭国大乱の痕跡だ。大乱は西日本一帯にあった」とする学者さんもおられました。
しかし乱のあったとされるAD150年〜190年頃には、少なくともこの集落は閉鎖しており、住人はどうも海岸線沿いへ移住してたらしいのです。
とすれば倭国大乱と結びつけるのは、難しくなります。

そこでたとえばこうは考えられないでしょうか?

ここ瀬戸内海は西からの侵入者が多い場所。特に弥生時代中期からは、鉄器と水田稲作の技術を持つ渡来系弥生人が西からたくさん侵入してきました。
それに対し先住者である縄文系弥生人は、陸稲栽培や、傾斜する地形を利用した棚田や焼畑農業といった原始農耕をしていました。もちろん鉄を知りません。

つまり、一言で弥生人といっても、大きく分けて縄文系弥生人と渡来系弥生人がいて、彼らは平野と丘陵に分かれ住んでいた。
他の地域ではそれがもっとゆるやかに交わり、効率のいい水田稲作へ移行したのですが、ここ瀬戸内海〜河内〜紀伊半島西岸では、渡来系の急激な侵入に先住民の土地は侵され、対立構造が生まれていたのではないか、と。
その痕跡が高地性集落なのではないかと思うのです。
高地性集落から鉄器が出土しないのも、彼らが縄文系弥生人だった証でしょう。
あくまで私の勝手な仮説ですが。

高地性集落の分布


さて、次は荘内半島を離れ、丸亀平野の一画・善通寺周辺にやってきました。
昼食はやっぱりうどん。琴平あたりで済ませ、今度は古墳時代前期にあたる「野田院古墳」「王墓山古墳」へ。
すっかり古代遺跡巡りになってきましたね(笑)。

野田院古墳(再現)

野田院古墳は大変古く3世紀末の前方後円墳ですが、写真見てもわかるように円墳部分がなんと、石積みされていました。
通常の前方後円墳は、土で形をつくり、その表面に葺石を貼るのですが、この古墳は貼るのではなく石を積みあげて作っています。
一応発掘で確認された石積みは2段までなので、このように復元したのだと、偶然そこで出会った善通寺市の職員の方に教えてもらいました。
もしかしたらもっと高く、他の後円墳のように3段、4段あったのかもしれません。

野田院古墳から5キロほど離れた王墓山古墳は、6世紀の前方後円墳。大変貴重な副葬品がたくさん発掘され、改めてここ一帯がヤマトの傘下で先進地域だったことがわかったそうです。

王墓山古墳(讃岐の山々が「日本昔ばなし」に出てくるようなボコンボコンした形で、かわいかった)

そうしてまるまる2日間の旅は終え、高松市内のビジネスホテルに宿泊。
3日目はスーパー銭湯でリラックスして、早めの時間に帰途についた次第です。
今回、日程の都合で、
鳴門市にある2世紀末から3世紀初頭の、もしかしたら日本最古の古墳ではないかと言われる「萩原2号墓」には行けませんでした。
そこが残念。

ここでは箸墓古墳やホケノ山に先駆けて、画文帯神獣鏡が出てるというから、すごい!
もし最古級の前方後円墳だとしたら、鏡を神宝とする九州勢力が、まず徳島へ移り住み、力を蓄えてから奈良盆地に進出して行った、なんてことも考えられます。
日本神話によると、イザナギとイザナミが日本列島を作る際に「おのころ島(淡路島)」から始めたとされています。
なぜ淡路島から日本が誕生したのか?
ヤマトが、淡路島と鳴門の萩原遺跡群から始まった政権なら、うなずけることかもしれません。

萩原墳墓群と淡路島と纒向遺跡の関係


そして肝心の邪馬台国徳島説。(紹介するサイトから地図を拝借しました)
私はまず「ヤマト政権」と魏志倭人伝に書かれた「邪馬台国」は別王朝と考えていますから、
その上で、あの山深い四国の道を知る限り、そこが女王国だったとする「邪馬台国四国山上説」はまずありえないと実感しました。

邪馬台国四国山上説

次に「邪馬台国徳島説」ですが、
魏志倭人伝に「水行10日陸行1月」と書かれている以上、水行10日のあと、なぜ途中からわざわざ1ヶ月も内陸を歩くのか?(下の地図参照)
その解明が必要でしょう。
方角についても倭人伝は、「南へ行き投馬国」「南へ行き邪馬台国」と書いています。
それが、投馬国だけは「南」。
邪馬台国は「南じゃないけどまあいいんじゃないか?」と。(笑)
やはり徳島ありき、という感は否めません。

邪馬台国徳島説

そして徳島説最大の根拠としているのが、
徳島県若杉山遺跡から発掘されていた「丹(辰砂)」ですね。
倭人伝には「其山 有丹」(その山には辰砂あり)と書かれており、当時徳島でしか辰砂は出ないから、こここそが邪馬台国としています。
ただ吉野ヶ里遺跡の石棺をはじめ、丹はさまざまなところで使われ、その鉱山は日本列島の至る所に存在します。
3世紀、本当に若杉山でしか丹は採掘されていなかったのか?
そうだとすればその根拠は?など
検証はもっと必要ではないかと思うのですが……いかがでしょう?


以上、最後はまたまた古代史に傾いてしまいましたが、
徳島・香川は地理的にも歴史的にも奥深く、謎多きところだと実感しました。
いずれまた、来させていただきます。
ありがとうございました〜!

<おわり>

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