SDGs?100年前から童話で伝えている日本人がいたよ。
SDGs、最近やたらメディアを賑わせてますね。最新の情報があれこれ溢れていますが、あえて先人たちの知恵や感性にも触れてみましょう。とにかくSDGsを知っている人も知らない人もこの物語を読んでみてほしい。
宮沢賢治「虔十公園林(ケンジュウコウエンリン)」
大正時代にこの物語を書く宮沢賢治の強烈な感性たるや。
まだ読んでいない方はこちら↓
※以下のリンクからちょっとしたブックトーク(あらすじやSDGs云々の感想)をご覧いただけます。(本作の青空文庫へのLINKもあります。)
袖ケ浦SDGs情報 宮沢賢治「虔十公園林」の話…
※以下、Facebookには書いていないネタバレあり感想
短い物語
しかし!!
主人公・虔十(ケンジュウ)が持つピュアな性格の描写の濃さ。
本当に賢治は人物のちょっとした仕草を表現するのが上手だと思う。
例えば、
虔十は「笑み」を止められないんですよ。
自然(太陽の光、雨の滴、木々の輝きなど)に包まれていることが嬉しくて嬉しくて笑っちゃう。(なんてピュアでかわいいのか!)
でも、周囲の人はその虔十のことを面白がって、からかうもんだから、虔十も嫌になって笑うのを誤魔化すようになってしまう。
笑みが出そうになると口をモゴモゴしたり、あくびをしてるふりをしたり、唇を手で触ってるようにして「ただ触ってるだけ〜」というふうに。
私たちもやりますよね(笑)?
でも、それを細かく、本当に丁寧に描写する宮沢賢治の繊細な観察眼、恐ろし!
(しかも童話で)
また、
虔十の死を呆気なく描くことの残酷さ。
前半あんなに虔十さんを愛おしげに語ったナレーター…
それだのに、
主人公の死を一文で済ませ、「ずんずん急ぎます」って。
まだ虔十の死を受け止めてない読者を置いていくような急展開。
なんと20年のタイムワープ!
でもそれが狙いなのだと。
生前の善悪に関わらず死は平等にやってきて、人は呆気なく死ぬ。
そして20年の年月が経てば、村は街になり、住んでいる人もおおよそ入れ変わってくる。
この世とは、そんな諸行無常の世界なんだ。
そんな賢治の考えも現れているよう・・・
でも、ここからがこのお話の真骨頂。
なんと20年後のその地に残っていたのが虔十の作った杉林。
当時と変わらず小学校の隣に並び、子どもたちの遊び場として愛されている。
久しぶりに故郷へ戻ったある学者は、その杉林を懐かしみ、そして虔十を思い出しながらこう言うのだ、
「ああ、全くだれが賢くて、だれが賢くないかはわかりません。ただどこまでも十力の作用は不思議です。」
十力(じゅうりき)とは仏教用語で仏様がもつ十の力(能力)を指すそう。
Wikipedia “十力” https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%8A%9B
周囲の人々が嘲り、小馬鹿にするようなの選択、行動、生き方が、後に尊い価値を生み出すことがある。
主人公・虔十の当時の行動は周囲の人々に馬鹿にされたが、20年後にその価値(人々への幸福・喜びをもたらすものであること)が認められた。
それは、私たちの常識の範囲では計り知れない、まるで仏様のような人智を超越した何か(=十力)が作用しているとしか思えない”奇跡”の一種とみなせるのだろう。
賢治は、十力を作用させうる人間こそ、虔十のような人物なのだ、というメッセージを送っているようだ。
自然の美しさに喜び、無駄な欲もなく、争いを好まず怒らない、そんな純粋な人間の行動が、人々への幸せをもたらすのだと。
広い野原があったら、杉700本を植えるという選択…
(…私には到底できないなぁ。)
ただ、現代の日本に「虔十公園林」が残っていたとしたら、どんな扱いになっているのだろう。
昔は建築用など生活に必要だった杉も、現代の暮らしにおいては生活様式の変化から、人々の管理が行き届かず、荒れ果てた杉林は花粉症を引き起こす厄介者とされている始末。やはり「十力の作用」は人が関わってこそ始まる…ということなのか。
現在も「虔十公園林」があるとすれば、虔十のような人物が、もしくは虔十の行動の価値を認められる人が、ただただ純粋にその杉林を管理していて欲しい、と私は願っている。
ここでタイトルに帰りますと
SDGsとはいわば「”次世代の人々へと続く幸福”を生み出すための目標」です。
ならば、20年後の人々へ幸せをもたらした虔十の行動は結果的にSDGsな要素が入った行動でもあったわけです。
100年前の童話作家が描いたSDGs物語。
あなたはこの物語にどんなSDGs項目を見いだしますか?
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