2025.01.23 YouTubeを観ているばかりの怖さを言語化してもらえた
今日も引き続き、以下の本から得られた知識の話。
著者の村山さんがおっしゃるには、全ての仕事はそれぞれの人の「表現」であると。
だから、人が社会の中で生きていくには、何かを表現する力を身につける必要がある。
この話を聞いた時に真っ先に頭に浮かんだのが、5歳の子どもがYouTubeばかり観ている姿への言葉にならない怖さだった。
これまでは、うまく言葉にならないけれど、多感な時期に一方的に動画を見続けて、時間を貪ることへの恐ろしさだけを感じていた。
その言葉にならない恐怖が、村上さんの言葉によって、リアルな感情として私の目の前に現れた。
何かを受け取るだけでは、社会の中で生きていけない。
もちろん、この書籍にもあるように他者から受ける刺激は必要だ。だから、YouTubeを観ることで体力のインプットは得られている。
問題なのは、インプットしたものをアウトプットしているかどうか。
私自身の経験でも、いくら良いインプットをしても、それを何かしらの成果、アウトプットに残せない事が多くあった。
私はサッカーで自分を表現する事に多くの時間を費やしたけれど、その過程でサッカー以外にも活かせるような表現の工夫、応用をしてこなかった。
だから、大学に入ってサッカーから離れた後、ゼロに近いところから他の表現を学んでしまったように振り返る。
サッカーを続ける事も選択肢の一つだったかもしれないけれど、何よりどのスキルを身につけて社会に出ていくんだ、という事をあまりに考えていなかった。
教育学部に入ったくせに、途中で教職を諦めて、じゃあどうするんだと本気で考えなかった。
それで社会に出てからとても苦しい時間を過ごす原因になった。
娘には、いつか社会の中で自分の力で生きていってもらわねばいけないのだから、今からコツコツと自分の得意な表現、好きな表現はなんなのかを見つけて欲しい。
自分自身の事を知るためにはアウトプットを繰り返して試行錯誤する他無く、YouTubeを貪るように観ているだけでは、その機会が失われてしまっている。
このような気づきがあったから、あとはどう子どもにこれを伝えるか。
あるいは自分自身も身近な人間として、彼女に自分なりに表現する力を高めていってほしい事を、言葉や行動で伝えていかなきゃ。
彼女の生きる世界はAIが生活の中に入り込んでいるだろう。
AIに出来てしまう表現では無くて、人間だからこそ出来る表現は何なのか、いろいろ情報を集めながら、一緒に考えなきゃ。