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トランスミッション2

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2020年9月の記事一覧

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【近畿三十六不動尊】聖護院門跡

生存・表現の根源的問い

生存・表現の根源的問い 私には相対的意識状態のみに依拠する人物が表現の根源的問い、根拠を徹底して考察しているとは到底思われぬ。 人間存在の存在根拠は無意味こそ意味であるという方向無き人生観は単に一観点にすぎぬ。己の思考の不徹底を顧みぬ怠惰な自我、精神の所有者のみが言い放てる戯言である。 三島由紀夫も川端康成にも人生の方向性、死生観はしかと描かれている。そのような内容、物言いなど何処にあるというような人物は単に上っ面を読んでいるにすぎぬ。 何も言語表現に限らぬが洗練され

私がここ10年以上、使うのをやめている言葉達

私はメンタルヘルスに興味があるので、色々その手の本を読んでいます。 (本業は医者です。でも精神科医ではありません。) 本を読んで学ぶうちに(なるほど。こんな言葉は使わない方が、自分のためにも、自分の話し相手のためにも良いなあ)と思った言葉があります。 そういう言葉を使わないように、毎日意識していると だんだん、それが容易にできるようになってきます。 今回は、そんな言葉を4つを紹介します。 (英語圏に住んでいるので、英語の表現も入っています。) 1. 頑張って! Do

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"Requiem"

"Requiem"「レクイエム」

「作家の視点」上野の森美術館にて。私の絵の前で。

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"Requiem"

「自己愛の不徹底」2

「自己愛の不徹底」(2)拙著「小林秀雄論」より抜粋 極論すれば我々は此の地上に存する限り何ぴとといえども不具者である。聖者はもと より、天才と呼ばれた存在達は常に己の無力感を名状し難いほどに味わっている。 く どいようだが有能ゆえではなく自己の無力さゆえに苦悩する。 「天稟の倫理性と人生無常 に関する沈痛な信念とを心中深く蔵して、凝滞を知らず、俗にも僧にも囚われぬ、自在で しかもあやまたぬ、一種の生活法の体得者だったに違いないと思う。」(西行)と。 だが常に実生活のな

創造と個性

表現行為に於いては個性云々が様々な視点観点から語られる。 この問題と自由、不自由という問いは不可分である。 唯物論的観点からはこの問いは徹底的に相対化されれば無意味な問いと化す。 世界、自然界を知覚する主体である「私」が消滅すれば一切は無に等しいという結論に導かれるからである。 さらに謂えば生存自体にも意味は無いという結論へと至る。 これは通常無常観とか空とか言われている概念である。 この観点からすれば、個人の一生など自然界の一部にすぎないし、この自然界の法則から

「即興表現について」

「即興表現について」 今日に生きる我々人類の個々人の課題として如何に創造・即興精神を日常化するか、という根源的問いが 自覚無自覚を問わず化せられている。 無論、この問いの自覚の度合いは各自各様の意識のありようによって異なる。 私は絵画表現を突き詰めている途上にて、この問いの根源的問い、自覚を26歳の時に痛烈な内的体験によって徹底的に味わった。 古来よりの「汝自身を知れ」の実体験でもあった。以来、如何に日常的生にこの課題を溶かし込むかという日々であった。 一切の分野、

「悲劇について」

「悲劇について」  かつて、ニーチェが『深淵を覗いた者が、深淵と化した』存在を、手厳しく批判した。 そしてこれは今日でも悲劇について語る時かかせぬ問題である。  自明のことだが、前提としてである。それはまた、批評の極点でもある。 だが、単にありうるというにすぎぬ。なぜなら、今日真の悲劇精神を所有している者は悲劇について語らない。 ただ不屈の意志を持って実践する。恐らく、彼等の行動は、人の目に触れず、聞かれず、知られない。がゆえに行動する。 闇に向って放たれた光の矢のごとく

「自己愛の不徹底」1

「自己愛の不徹底」 拙著「小林秀雄論」より抜粋 自明の事と言えば自明の事だが、本当に我々は自分自身を愛しているのだろうか。さらに言えば自己認識をしているのであるか。我々は通常では自己愛を悪しきものとみなしている。無論、狭義の意味で用いられているのだが、その判断は何の根拠があって、誰によって、何の為に悪しきものと決定されたのか?殆どの人々はこの日常何気なく使われている言葉すら理解もせずに使っている。 真の自己とは何か? 我々が人間と呼ばれ、生き、生活する。一体我々はどこか