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映画⑥バービーは私的エモい残念映画

バービーとの最初の思い出ってなんだったっけ。

恐らく幼稚園の時、
サンタさんからのプレゼントで自転車をもらい、
そのカゴの中にバービーが入っていた。

バービーは今でいうバレエコアな
ピンクのドレスを着ていて、
あんまり着飾りすぎないシンプルな姿が
めちゃくちゃお気に入りだったと記憶している。

小さい頃、特に深く考えたことはなかったけど
とてもたくさん遊んでもらった。
ありがたいことに私と妹と合わせて、
結構いろいろ揃えてもらった方だと思う。
洋服や靴、バッグ、家や家具、
バービーが飼うための犬。

ただ、この映画を見たからといって、
そのバービーで遊んだあの頃が懐かしいとか、
そういうことが思い浮かんだんじゃない。
バービーというアイコニックな存在から、
私は「なにか」を感じたっぽい。

そもそも「バービー」について考え直す

子どもや甥っ子姪っ子の存在がないので、
今の子どもたちがどうだかわからないが、
私が子どもだった時、バービーはおもちゃだった。(そりゃそう)

外国人風で浮世離れしたバービーと、
やや日本人寄りのまだ現実感のあるリカちゃんと、
混ぜて遊んでいた記憶がある。

いい意味でも、悪い意味でもおもちゃ。
当時を思い返しても、バービーになりたい、
バービーみたいなファッションをしたい、
とか、自分の未来をバービーに投影することはしなかったタイプで、
唯一靴だけ
「大人になったらこんなん履いてみたいな」
と厚底ヒールに思いはせていた。
※残念、大人になったらもっぱらペタンコシューズばかり履いてます

なので何が言いたいかというと、
そもそもこの映画で知らされた
「今は多様性のあるバービーが展開されています!」にものすごく違和感を感じるわけで。
どうやら今は人種はもちろん、
体型が異なるタイプで売られたり、車椅子に乗っているバービー、ダウン症のバービーもいるらしい。
平成生まれは新時代を感じます。

これはもちろん未来を思って、
良い取り組みと思う一方で、
単純におもちゃとしてカワイイ顔とスタイル、
ファッションや所持している服で楽しんでいた当時の私からすると「多様性」は全然重要じゃない。
映画前半で一旦捻くれた私はいやいや、
大変だねマテル社も。と思ってしまった。
(今思うと単純すぎのペラペラ野郎である)

映画「バービー」を見て思う「現代」の違和感

あらすじは以下から!(書ききれねえ!)

映画内のバービーの世界はなかなか攻めている。

バービーの世界は現実の「ラインアップ」と一緒。いろんなバービーがいるけれど、
それはみんな「バービー」という名前なので、
その世界にいるほとんどの人が互いを「バービー」と呼び、
それと同じくらいいるケンのことを「ケン」と呼ぶ。(慣れるまで我慢)

バービーランドでは「バービー」が主役。
全部バービーが中心を担い、
バービーのことを狙うケンがいるという構図。
めちゃくちゃ簡単にまとめると、
主役の定番バービーの持ち主の心の揺らぎによって現実世界にバービーが行ったり人間がバービーランドに来たりして、
いろいろ乗り越える話なんだが、
私の人生経験と自己認識からは理解しきれない展開と結末を迎える。

ここは納得!バービー!

ちなみになにより主演のマーゴットが美しすぎ
完璧にバービーやってるのがなにより納得感

一旦納得したことをまとめてみるとこんな感じ。
・私たちは何にでもなれるし、何かになるべき、という役割も存在しない!(性別、年齢、人種、など人をカテゴライズするグループによって括られる必要はない)
・そもそも役割が勝手に植え付けられてるけどおかしい!騙されるな!乗り越えろ!

以上です。
ざっくりまとめすぎてますけど、伝わります?大事なことですよね。(押し切る)

バービーの持ち主であるグロリアが、
途中で自分に与えられた不条理な役割をわかりやすくぶちまけてくれているので、
全世代性別の人が映画が問いただしたい違和感を
一旦理解できます。

また今回巧みだな〜と思うのは、
現実世界とは正反対に、
ケンという「男性」が現実世界でいう「女性の不条理な役回り」を担っていることで、
普段当たり前だわ〜と思っている偏見や矛盾を面白おかしく炙り出すわけですね。
ありえない!と笑いつつ、
これの真逆って世界で毎日この瞬間に起こってるな。冷静な考えると引くよな?という
実感がジェットコースターのように襲って来ます。

私たちは本来、生物学的な生殖の役割以外で性別というセグメントごとに果たすべき役割なんてないんですよね。

これ今の若人には当たり前なのかもしれないですが、ぎりZ世代にカウントされることもあったりなかったりする、
アラサー平成生まれ的には実は「忘れがち」なことでは?と同世代に問いかけてみたりします。

私は90年代半ば生まれですけど、
やはりなんとなく、大人や社会を見る中で
セグメントごとの役割をなんとなく勝手に認識してしまい、特に今回バービーの映画の中で取り沙汰される男女差においては、
「女性はこう、男性はこうであるべき。」
という潜在意識はしっかり形成されてる気がします。

小学生のときから、男っぽい、女っぽい、
という言葉も使っていたし、
女らしくした方がいい、と他人や自分にも無意識に制限をかけたことがあるんですよね、おそらく。

正直、生物学的な性別として女、男があって、
私で言えば
自分が生物学的にも女で、
私が思う「女っぽい」を勝手に女として
楽しむこと自体は問題ないと思うんですよね。

ただ、私たちは無意識にそれを人や社会に
投影して「あの人は私が思う『女』とは違うよね」
みたいなことをやってきてしまったのかな、
とも最近は思い返すこともあります。

そういう意味で、
今回の映画「バービー」はわかりやすく、
皮肉や親しみやすさを混ぜ込みながら
私たちのような世代には気づきを与えてくれる要素もあります。

ここまで冷静に考えてみると、
改めて私がさっきまで理解できなかった
バービー人形の多様性についても気づきがあります。

バービー人形に多様性が必要な理由。
私たちのすでに偏見に塗れた心に上書きは難しいものの、これからバービーと出会う世代。
つまり子どもたちには、
バービーが女だからこうするべき、
バービーの人種はこれだからこういうファッションを着るべき、
という「べき」の呪いはかけたくないんですよね。
私たちは無意識のうちに、
子ども時代にいろんなものを吸収してこの思考に至ってしまったと。

そんなものをもともと作らなければいいわけで、
子どもにとっては"どんな"バービーも、
ただの遊び相手であると同時に、
当たり前や憧れや未来の自分を形成する存在の一つにならなきゃいけないんですよね。

1980年代に「あなたは何にでもなれる」という時代をかなり先取ったコンセプトを打ち出してるだけある、
販売元のマテル社の強い信念を感じますね。
(マテルとタカラトミーがこのメッセージを日本のマーケットで表現できなかったことには同情しつつ、残念な気持ちもややありますが)

ちなみに、マテルのバービー公式サイトに
めちゃくちゃわかりやすく歴史やコンセプトなどまとめられています。

ここが納得できない!
バービー!

無気力バービー

で、ただ映画「バービー」においては、なかなか納得し難い部分も多々あるわけです。

これはさっきの納得ポイントが結果的な読後感、
まあつまりストーリーの実態じゃなくて
私があくまでもストーリーから解釈して残った個人的感想だとしたら、
そこに至るまでの「ストーリーの実態」には、
やはりなんだかモヤモヤ消化不良があるわけです。

細かいモヤリは死ぬほどありますが、
大きなモヤリはこれでしょうね。
「えっ!!!ケン!!!!それでいいの?」
ってとこだと思います。

この映画では、
バービーランドで
バービー(女)優位な社会が築かれる一方、
現実社会では、
男(ケン)が優位な社会であり、
それを目の当たりにしたケンによってケン(男)の逆襲、つまりバービーランドを乗っ取ってしまうという重要な展開があります。

これ、どうやって解決するか見ものだな〜って、
私は思ってたんですが、
紆余曲折あって端的にいうと
「バービーが世界を取り戻す」んです。

これちょっと受け入れがたかったんですね。
一応ケンには
「自己認識の欠如が悩みの原因なんだ。」
「強くいなくていい、男だけど泣いてもいい。」
などのメッセージは与えられるのですが、
なんか弱い!!!!

いまいち解決されないことばっかしなんですわ。
なんかバービーは最高!女の子最高!!!エンパワーメント!!!
あ、ケンはちょっとずつパワーつけてこうね。
みたいなテンション....

それこそ、私が見つけられていないだけの可能性も高いですが、
「バービーは女性、ケンは男性」という設定ルール、
そこからはみ出すキャラはいないんです。
なので、
どうしてもバービーを語るとそれは「女性」を、
ケンを語ると「男性」を語ることになります。
でも取り扱いはバービーランドと現実世界の描写で入れ替わるので、

バービーランドでは
バービー=男性
ケン=女性 

現実は
バービー=女性
ケン=男性

みたいな文字にすると複雑だけど、
結局男女のセグメントでしか語らないが故に、
いろんなものを取りこぼすんですよね。

本来、バービー人形が持つ
"You can be anything”のメッセージには、
成り立ちの歴史的に「女性」のエンパワーという
エッセンスがあるものの、
「男女の対立構造」において、
「女性」または「男性」が勝利する...ではないはずなのに...
という
なんかとてつもなく私の中でバービーちゃんたちが散らかってしまいました。

結果残したいメッセージはどうあれ、
もっとバービーとケンが共に暮らす社会の建て直し方は見本になる新しいやり方があったのでは?
と感じてしまったわけです。
え、嫌な言い方!!いや、うるせぇな私!笑

これおそらく、制作された国と日本の文化の違いも大きく影響してると思うので、
私が着目すべきストーリーの観点と、
制作側の意図することと
若干ずれちゃってる気はしますね。
ただ、
それも含めてこの映画の見方は問われるというか、
ある意味醍醐味なのかな...
ここが文化的に見方変えた方がいいよ!
という意見ありましたら大募集してるところではあります。

私のお気に入りのシーンから
映画「バービー」の価値を考える

ここまで文句ばっかりしばいて来ましたが、
実は私はこの映画見た後にちょっと泣きました。
ここまで書いておいて、泣いたんかい!って
何度でも自分でツッコミますが。

なんでかっていうと、最後"あの"シーンがあって、
それを見た後に残されたのは、
「私は何にでもなれる」と
無意識に信じ込んでいた幼い頃の私って
どこに行ったんだろ。
という想いがじわじわ込み上げたんですよね。

あのシーンはあれですよ。あれあれ。
ビリーアイリッシュの歌が流れながら、
女の子の人生をなぞる回想シーン。
回想シーンというより、
女の子の人生で感じる喜びや幸せを
直接バービーと私たち鑑賞者の脳みそに
送り込んだ概念映像なんですけど、
それを見てる時なぜか泣きそうになったんですよね。

いろんなことが過ぎ去っていって、
喜びも幸せも変化していくわけで、
でもまさにバービーと一緒に遊んでたあの頃って、
本当に自分が何にでもなれると思ってた。
さすがに、バービーにはなれなくとも
もっと大きい夢を叶えたり、
大きい世界に飛び出したり、
あらゆる選択が目の前にあって。

でもあの頃はそれを、
まだ実際には選ばなくてよかった。

なんか選択肢たくさんあるねー!たのしー!
今日はお花屋さんになりたいし、
明日はケーキ屋さん!でよかったわけですよ。

でもこうして大人になってみると、
全然なんにもなれない自分がそこにはいて、
なんなら私が平凡だと思ってきた生活すら維持していくことって難しいんだな〜と気づく。

もう選択肢いっぱい!でもまだ選ばなくていいよ!という時代に感じていた、
自由さや、未来や自分への期待感、
そんなものは一生戻ってくることはない
という寂しさと、
でもありがたいことに
そんな想いをさせてもらえて、
あらゆる喜びや幸せを感じて来たな、
という周囲や環境への感謝もあり。

でもやっぱり、
もうちょっと、
まさに今自分や未来に期待したり、
無理やり手を伸ばすようなことがあってもいいんじゃないかな、
そうでありたいなと最終的には思いました。

結局は、
女だから、母だから、独身だから、バービーだから、バービーじゃないから、とか、
私たちはラベルにこだわりすぎてしまって、
自分自身と向き合ったり、
自分自身を活かしてあげる機会を損失してしまっているよね。もっと自分の人生を愛さないと!ということなのかな〜と
最終的にはこの映画の良さを解釈してます。

そして、私たちがそうそう!と共感した部分も、
なんか違和感を感じた場面も含め、
今の子どもたちやこれから生まれてくる子たちにはこの映画自体が違和感であって欲しいなと。
そもそも属性に紐づく役割やあるべき姿に縛り付けられていることなんぞなければ、
この映画は違和感でしかないし、
解決策も全く腑に落ちない。

バービーは映画史に残る傑作じゃなくて、
"残らない傑作"にならないといけないんじゃないかと勝手に思ってます。

それが地域や文化にしばられず、
ちゃんとみんなが自分のなりたい自分をいくつになっても目指せるようになってほしいねぇ〜と。

そしてもう一個責任を感じるのは、
おもちゃってただのおもちゃなんですよ。
ただ、これを選ぶ基準って子どもではなく、
大人が持っているんですよね。

例えば、
バービー販売元のマテル社は、
あらゆる選択肢を用意してます。
ただビジネスの世界でそれが成り立つか成り立たないのか、
それを子どもに買い与えるのか買い与えないのか、
買ったところで
その必要性を自然に子どもに感じてもらえるのか。

そういうことは大人にかかっているのだな、と。
私が仮に親になって自分の子や、
他人の子に何かを与える時、
その子どもが生きる世界の土台を作るのは、
紛れもなく自分自身であり、
自分が生きて来た世界の良し悪しだけで判断すると、
差別と偏見と矛盾に溢れた何かを与えてしまうし、
子もそうなってしまうんだということなんだと。
あえて、重く受けとめてみたりしました。

映画「バービー」は残念で、
それでいてエモいな

映画「バービー」はオスカーから、
かなり皮肉な評価を受けます。

アカデミー賞はあくまでも映画賞レースの権威ではあっても、ただの一つの評価基準なので、
この評価が決して全てではないですが、
見る側も作る側も重要視している人は多いとは思います。

結果的に、
助演女優賞と助演男優賞、歌曲賞のみでのノミネート、
つまり映画そのものの主軸である監督と、
主演のマーゴット・ロビーはノミネートされなかったんです。
助演男優賞と歌曲賞の「I’m Just Ken」で、
むしろケンが盛り上がってる感もある...
つまり、わかりやすく映画のテーマそのものに反するような結果になっており、
これに対してちょっとした批判的コメントがライアン・ゴスリングからあったりして、
といった一連の流れが話題になってましたね。

結局受賞したのは歌曲賞で、ビリー・アイリッシュの「What Was I Made For?」のみ。
(これはもう死ぬほど納得、この曲によって映画はさらに輝いた)

なんかやっぱり、なんとなく、
ちょっとみんな意味はわかるけど、
共感しきれないところがストーリーとしてあったのかな〜と邪推しています。

ただ、
否定できないのはなんかエモいんですよね。
それはやっぱり、
私のように子どもの頃を一緒に過ごしてくれたバービーが映画になって動き始め、
その人生や自分自身の尊さと、
完璧でないからこその美しさを再定義してくれる。
それはアラサー的には刺さるしかなく。

あの頃、バービーが与えてくれた憧れや、
「かわいい」「イケてる」みたいな、
前向きな気持ちは今でもどっかに生きているのかも。
また大人になっても、
それをバービーがそれをやってくれるから、
私たちには刺さるんだろうな。

そんな「バービー」だからこそなし得る、
映画体験だったのかなと思います。

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