香菜さんの男子禁制酒場(7)「母親になって後悔している」
「また悪い癖が始まったよなあ」
居酒屋『円』のカウンターでタクさんがジョッキに入った生ビールを飲みながらこぼした。
「何よ、悪い癖って」
厨房に立つ香菜さんが、すりこぎ棒を手にすり鉢で何かをゴリゴリと擦りながらタクさんを睨みつけた。
「だってここんとこ、この店の中、スパイスの匂いが充満してまるでインドじゃねえかよ」
「タクさん、インドに行った事あるんですか?」
タクさんの隣に座って茹でた枝豆を食べながら祐介は聞く。
「ねえけどよお、毎日毎日、スパイス攻撃じゃねえかよお。ここは日本だろ?」
「何よ、いいじゃない。夏なんだから」
香菜さんは歌うように言ってゴリゴリと手を動かす。
祐介が住む山の町に夏がやって来た。
祐介がこの町に移住して季節の変わり目を感じるのは気候によってではない。
味覚である。というのも居酒屋『円』の女将、香菜さんはその季節の旬の 食材を使ったレシピをこれでもかとばかりに作るのだ。
冬は餅、春は山菜、初夏はパクチー。お通しからメインまで、その食材を使い切る。
そして真夏になった今、香菜さんのブームはスパイスなのである。ここは 居酒屋ではなく、南インドカレー屋かと勘違いするほど飲みに行くとカレーが出てくるのだ。
「でもさあ、流石に毎回カレーだと飽きるってーの。なあ?」
タクさんが遼介に同意を求める。
「この枝豆も心なしか。ほんのりカレー風味ですね。色は緑のままなのに」
「それはね、カレー粉を入れた茹で汁で煮たの」
香菜さんがドヤ顔で遼介に答える。
「ったく、油断も隙もあったもんじゃねえよな」
タクさんが枝豆をくわえる。
「ま、スパイスはカレーだけじゃないからね。この夏は楽しんでもらうわよ」
香菜さんが不敵な笑みを浮かべながらゴリゴリとすりこぎ棒を動かす。
「なんか魔女みてえ…」
タクさんが怯えた表情で香菜さんを見つめる。
「美魔女と言ってよ、美魔女と」
香菜さんがそう言った途端、店の扉が開いて「こんばんは」とショートカットの凛々しい女性が入って来た。祐介はその女性を見るなり、くわえていた枝豆の皮をポロリと落とした。移動スーパーの運転手として働く祐介が、いつも頼りにしているケアマネージャーの陽子さんだった。
「あれ?宮沢君と結奈ちゃんパパ!」
カウンター奥に座る祐介とタクさんを見て、陽子さんが声をあげる。
「おー、陽介君ママ!」
「え?何、知り合い?」
香菜さんがタクさんに聞く。
「うちの結奈のクラスメイトの陽介君のお母さんの岡本さん」
一瞬で理解できず、ん?と眉間に皺を寄せて考える香菜さんに「あ、私のママ友の旦那さんって奴なんです。宮沢君、ここいい?」
陽子さんは祐介の隣の椅子を見て聞いた。いいも何も遼介にとっては大歓迎で ある。
緊張しながら椅子を、タクさんが座る右隣にずらす。
「ありがと」
陽子さんはその隙間に体を滑りこませて隣の椅子に座る。
「ん?遼介君て『宮沢』って苗字だっけ?」
香菜さんはまたしても眉間に皺を寄せる。
「ひどいですね。二年もこの店に通ってるのに」
祐介は口を尖らせながら枝豆を咀嚼する。
「え、宮沢君て『祐介』って名前なの?」
今度は陽子さんが驚いた顔で祐介を見る。
「ひどいなあ」
祐介は芝居がかった調子でビールを煽る。
「ごめんごめん、うちの息子の名前『陽介』だから。似てるなって」
陽子さんが取りなすように笑った。
陽子さんの一人息子である陽介君は、祐介を見るといつも睨みつけてくる。
それは彼にとって祐介は恋敵だからである。
祐介君はタクさんの長女である結奈ちゃんが好きで、その結奈ちゃんはバレンタインチョコをプレゼントするほど祐介が好き。その祐介が好意を向けている女性が陽介君の母親である陽子さん。当の陽子さんはそんな祐介の気持ちも事も知りもせず、自分に興味ないどころかどこかで息子扱いしているようだった。恋の一方通行で大渋滞している訳だ。
「しかし、珍しいね、陽介君ママが飲みに来るなんて」
「ふっふっふ。うちの息子が二泊三日でボーイスカウトのキャンプに行ってくれてるのよ。よって二日間、母親業から解放されて自由!」
陽子さんは大げさに両手を広げて香菜さんに「ビール下さい!」と叫ぶ。
子供のようにはしゃぐ陽子さんを初めて見た遼介は面食らってしまう。
香菜さんはクスッと笑いながら陽子さんの前に、ペールエールとカレー風味の枝豆が入った小鉢を並べた。
「きたきた!」
香菜さんはグラスに注がれたビールを一気に美味しそうに飲み干す。そして枝豆を手にとって「今日は自分の好きなものだけを食べるの。なんて贅沢!」
「あー、その気持ち分かるわー。うちもメシは嫁が頑張ってくれてるから 決してまずい訳じゃないんだけど、チビの娘二人メインだからさ、カレーが甘口だったり、ハンバーグとかオムライスとかコロッケとか、あんまり酒の肴になんないようなものばっかでさ。だからついつい、ここで夕飯食べちゃうんだよな」
「何言ってんですか、作ってくれる嫁がいるだけありがたく思ったらどうですか。私なんて毎日、自分がそこまで食べたいものじゃないものを作るんですから。ま、陽介が美味しく完食してくれるだけでいいんですけどねー」
陽子さんは早速、アルコールが回っているのかタクさんに突っ込みを入れる。
「お、陽介君ママ、中々言うねえ」
タクさんはタジタジだ。
「その『陽介君ママ』ての、ここではやめてくれませんか?私も『結奈ちゃんパパ』って呼ぶのやめますから」
「え?じゃあ『陽子さん』でいいの?なんだか艶かしいなあ…」
勝手に照れるタクさんを「馬鹿じゃないの」と香菜さんが突っ込み、皆が笑った。
「今夜はね、ケアマネージャーでもなく母親でもなく女でもなく『ジャスト陽子』 になって、子供が嫌いそうなものをバリバリ食べてガンガン飲んでやる!」
陽子さんは残りのビールも飲み干し「もう一本!」と香菜さんに空の瓶を差し出す。
「『ジャスト陽子…』」
思わず祐介が口に出す。只の陽子。それがそれほど陽子さんにとって大切なのだろうかと遼介にとってはよく分からない。結婚した事も親になった事もないからだろうか。
自分はいつだって『ジャスト遼介』でいられる。
でも数年おきに母親から連絡が来ると、一気に胃が重くなる。それは「息子」という社会的な自分の一面を感じるからだろう。陽子さんが脱ぎ捨てたいのはそういった重さなのかもしれない。
「女も面倒になっちゃいますか?」
香菜さんがビール瓶を渡しながら聞いた。
「うん、面倒臭いよ。仕事バリバリやっても上が男だと煙たがられるから、いちいちたてないといけないし」
「陽子さん、利用者の人に人気ありますからね」
「それはありがたいんだけど、変な噂をたてられるし。女を使ってるとかね。ケアマネージャーで女を使ってるも何もないじゃない」
「うわあ。私の編集者時代と同じだなあ。男が仕事で嫉妬すると、そういう事、言いますよねえ」
祐介とタクさんはお互い顔を見合わせて、首を傾げる。
地元のスーパーで働く二人は仕事で女性に嫉妬などした事はない。しかしスーパーで働く女性の殆どはパートタイムで働くアルバイト雇用である。
立っている場所が全然違うから嫉妬しないのかもしれない。
「そう言われるの面倒だからわざわざツーブロックにしてるのに」
なんと、陽子さんの清々しいツーブロックヘアは好みや仕事しやすい為ではなく、ハラスメント対策であったのだ。祐介は驚いた。
「あー分かる。私も今着ている作務衣は体の線が見えないように、なんですよね。エプロンとか着ていると面倒な酔っ払いのオヤジにいじられて面倒だから」
「あーはいはい。男のエプロン幻想ね。まあ母性の象徴みたいなものだしねえ」
「俺は別にいじった事ないから!」
タクさんが語気を強めた。
「別にあんただって言ってないわよ」
香菜さんは藍色が美しい作務衣を着ている。それはこの古民家を改造した内装に合わせてる為と遼介は思っていたが、どうやらそんな悠長な事ではないらしい。
「結構女を打ち消して仕事しているのに、今度は利用者のお爺ちゃん、お婆ちゃんが一人で寂しいでしょうって見合い話持ってくるし『今度、紹介するよ』って挨拶のように言ってくるし」
「ああ、私もたまにあるなあ。地方で女一人暮らしあるあるですよね」
「勝手にシンママを寂しい女にしないで欲しい訳よ!母でも女でありたいから恋したいでしょ?みたいな論調に人を巻き込まないで欲しい訳よ!」
陽子さんの語気がどんどん強まった。ケアマネージャーはいろんな人の愚痴や悩みを聞く仕事でもあるから日頃、よっぽど溜まっていたのかもしれないと遼介は思った。
「この間ね、眠れないから夜中にテレビをつけたら、たまたま古い映画をやっていたので見たの。『時計』っていう映画でね、いしだあゆみさんがシングルマザーの役なんだけど」
「おお!倉本聰が初監督した映画か。俺、見てねえんだけど」
タクさんが食いついた。タクさんは倉本聰が原作と脚本を担当した 「北の国から」の大ファンなのだ。
「その人は知らないけど、とにかく、いしだあゆみさんの娘さんがフィギアスケートをやっている設定のお話なの。そこに新進気鋭の映画監督、永島敏行が『娘さんを撮らせて下さい』ってお願いしてくる訳。『僕は女性の脚の成長が撮りたいんです』とかなんとか言っちゃって」
「うわ〜きも〜い!」
「そうでしょ?とんだ変態なのに、あまりにも永島敏行が熱心なものだからいしだあゆみがオッケーしちゃうんだけど、そうしたら撮影が進むうちに二人の間で恋愛感情が生まれる訳」
「うわー。そんな変態となんて無理―」
「でね、付き合って撮影が進むにつれ、その変態の態度がどんどん偉そうになって亭主づらしていしだあゆみの家に入り浸るんだけど、
数年単位で撮影してるからフィルム代がかかるわけ。それでそれを貸せと」
「はあ?娘の脚を撮らせろって言って、足りなくなったそのフィルム代を
貸せと?」
「そう。シンママを舐め腐ってる訳よ。そんなの恋愛じゃなくて搾取、罰ゲームよ。それで永島敏行に怒りがメラメラと」
「うん、確かにそれは罰ゲームですね」
「いい歳したシンママの恋愛って、そんな罰ゲームに耐える
ことなのかって、もう情けなくなってそこでテレビを消しちゃった」
「うん、精神衛生上、見ない方がいいですね。バツイチも似たようなもんです 『簡単』って思われてますね」
「なんでそんな罰ゲームを受け入れるほど、いしだあゆみは恋愛したいのか不思議で。恋愛するという事が女として潤っている、みたいなあの世間の 感じは何なのかしら」
タクさんと祐介は恐ろしくて二人の会話の中に入れなかった。
それにしても今、陽子さんは恋愛に興味がないらしい。噂では前の旦那と別れた理由はDVで、ロクでもない男だと聞いている。噂半分に聞いていたけど、この陽子さんの頑なな感じから、その噂はまんざら嘘ではなさそうだと祐介は勘ぐる。
これは当分、陽子さんに自分の気持ちを伝える事なんか出来ないなあと内心がっかりしてしまう。
「確かに『恋愛してないと人生はつまらない」とか『損してる』みたいな論調はありますよねえ。そういうのは個人差あるのに。私は男とわちゃわちゃするより、 スパイスとわちゃわちゃしてる方が楽しいんだけど。はい、これどうぞ」
香菜さんが陽子さんの前に藍色の楕円形の皿を差し出す。そこにのっかっているのは朱色がかった手羽先が三つ。ほんのりと焦げ目がつき、脂を滴らせている。
「タンドリー手羽先です。結構チリパウダーが効いてますからね!」
「あら、辛いの大歓迎!」
陽子さんは笑顔で目を輝かせ、手羽先にむしゃぶりつく。
「あ、柔らかい!それと意外と結構、さっぱりしている」
「ヨーグルトに漬けて込んでますからね」
「おー、ジワジワとチリパウダーが!」
陽子さんは慌ててビールを流し込む。
「あれ?このビール、1本目と味が違う。ガツンと重い」
「1本目はベールエールですけど、それはIPA。結構苦味が強いからスパイス料理に合うんですよ」
「ああ、苦味と辛味。子供といる時にはなかなか味わえない二大珍味。
ケンタッキーを買う時もなかなかホットは手を出せないのよ。 陽介、お腹弱いから」
陽子さんは嬉しそうに手羽先の肉を前歯で剥がしていく。それは祐介が今まで見たことのなかった陽子の表情であった。
「なんか、陽子さん、生き生きとしている」
祐介はつい言ってしまう。
「そりゃあ今夜はジャスト陽子ですから。これが本来の私でございます。」
「これから先もずっとジャスト陽子でいたいと思いますか?」
「そりゃあ出来たらねえ。何にも縛られない世界でやり直したい!と思ったりもしますよ」
陽子さんはタンドリー手羽先の辛みを楽しそうに味わいながら答えた。
「それは『母親としての陽子』も捨ててですか?」
祐介が聞いた途端、陽子さんの笑顔が固まり、その場の空気が変わった。
「お前さ、失礼な事聞くなよ〜」
いつも地雷を踏んでその場の空気を壊すタクさんが、珍しくその場をフォローする。でも母子家庭育ちで自分をネグレクトした母を持つ祐介は純粋に知りたかった。もちろん自分の母親と陽子さんは違う人間だけど。
陽子さんは厨房から湧き上がる湯気をまっすぐと見つめて言った。
「ううん。失礼じゃないよ。今夜は本当の事、言っちゃう」
祐介とタクさんが陽子さんを見つめる。
「そういう事、しょっちゅう考える。母親やめて一人になりたいって」
「え」
タクさんがくわえていた枝豆を落とした。
「私、子供を産んで後悔してるの」
一瞬、皆の動きが止まった。そして陽子さんの次の言葉を待った。 しかし、陽子さんはじっと湯気を見つめて何も言わない。店内にあるクーラーの風音がやけに大きく聞こえる。
陽子さんは、ふうっと大きなため息をついた。
「あー言っちゃった。私…。言葉に出しちゃった」
「ちょ、ちょっと冗談だろ?何、いきなり重い事、言っちゃってんの。 あんなに 陽介君と仲良しで、いいママやってんじゃない」
タクさんがふざけた調子で言う。しかしその口調から明らかに動揺が感じられた。祐介も陽介君と楽しそうにスーパーで買い物をする陽子さんの口 からそんな言葉が出るとは驚きだった。正直、聞きたくない言葉だった。自分から聞いた質問なのに勝手なものだ。
「『いいママやってる』かあ…」
陽子さんがどことなく自虐的に鼻で笑う。
「うん。そうだよ!俺は立派だと思ってるよ、一人で育ててさ」
タクさんは力強く陽子さんに言う。どうやら励ましているようだった。
「うん、自分でも頑張ってると思う、母親業。働きながらだから完璧じゃないけどね」
「うん、そうだよ!」
「あの子がいるから頑張っていられるんだと思う。可愛くて大好きだよ、陽介の事。だけど、息子を愛している事と、母親である自分が幸せとはまた別の問題なの。実は幸せだと感じた事はないの。責任感ばっかりで。一度母親になったら、やめたくてもやめられないし」
重い空気がその場を支配する。
「苦しくてネットで情報をいろいろ検索してたら、『人を産むという事は人を殺すより罪深い』ってある哲学者が言ってて、そうか私は殺人より罪深い事しちゃったんだって」
「それはあまりにも極端だろ!誰だよ、その哲学者は!ニュートンか?」
「ニュートンは哲学者じゃなくて科学者よ」
香菜さんが小声で突っ込む。
「でもそのくらい、子供を産んで育てるって責任重大で、時々それに押しつぶされそうになる。そこから逃げたくなる。こんな思いをするなら産まなければ良かったって思う」
「でも、可愛いんだろ?息子の事は」
「もちろん。だからそれとこれとは別の問題だし、矛盾してる気持ちなの」
陽子さんは全てを吐ききったかのように、フッと小さく息をついた。
「なんか重い事、言っちゃってごめんなさい。でも、今夜はこの事を言えて良かった。聞いてもらえて良かった。ちょっとだけ楽になれた。別にね、母親をやめようとか、そんな事は思ってないの。多分、陽介と二人の今の生活がこの先続いて行くんだと思う。ただ、自分は今、そんな思いを抱いている。それを言いたかっただけ」
「…ビールの次は何にします?スパイス料理に合う赤ワインとかどうですか?」
香菜さんが声をかける。
「ありがとう。頂きますね」
香菜さんはワイングラスをカウンターの上に置き、ボトルから注ぐ。赤い液体が照明の白熱灯で透き通り、陽子さんの頬を照らした。
「はい。そしてこれはワインに合うスパイスカレー。味変トッピングと一緒にどうぞ」
香菜さんはカレー皿に盛られたスパイスカレーと、トッピングがのった長皿を渡した。
「はーいい匂い」
「8種類のスパイス、何度も配合を試したから自信作なんです」
「トッピング、これは何ですか?」
「左からブルーチーズ、ひよこ豆のフムス、柴漬けの微塵切り。一つ一つ混ぜてもいいし、どんどんミックスしてもいいし、お好みで食べてくださいね」
「柴漬けをスパイスカレーにトッピング?」
「結構合うんですよ」
「なんかあまりカレーのトッピングに聞いた事ない奴ばっかだよな。」
「聞いた事あるようなトッピングだったらつまらないでしょ?」
タクさんの疑問を香菜さんがぴしゃりと遮る。
「あ、ルーはサラサラでライスは玄米なんだ。なんか薬膳みたいですね」
陽子さんはカレーをスプーンで一口、口に運んだ。
「うん、これはこれでシンプルだけど、後からスパイスがそれぞれ口の中で膨らむ感じで美味しい!」
陽子さんのスプーンはサクサクと進む。
「味変はまずはブルーチーズ、行きます」
サイコロ状に切られたブルーチーズを陽子さんはルーに溶かす。
「おおブルーチーズ、匂うねえ。この匂いでワイン飲めそう」
タクさんが香菜さんにワインをねだる。
「わ!チーズの癖の強さがスパイスで引き締まって、初体験の味!意外と 合う」
陽子さんが目を見開く。
「うん、これはワインが進んじゃう」
陽子さんはワインを一口飲んで目で笑った。よっぽど合うらしい。
「続いてはフムス、いってみます」
ベージュのペーストをカレーの中に落として、ルーと一緒に口の中に運ぶ。
「うん、これはコクが増してマイルドになった」
「柴漬けもいってみてよ、毒味毒味」
タクさんが煽る。
「はいはい」
陽子さんは微塵切りにされたピンク色の柴漬けをご飯の上に散らして、 カレールーと和えて口の中へ。
「うん、酸味が効いて複雑な味わいで口の中が引き締まる!色もかわいいし」
「全部一緒に食べてみて下さいな」
香菜さんが企みに満ちた表情で言った。
「ちょっと怖いけど、どれどれ」
陽子さんはブルーチーズ、フムス、柴漬けとカレーをあえてから、恐々と口の中へ運んだ。
「うわ!なんか、カオスな味!でもこんなの味わった事ない!なんか、毛穴が開いちゃう!」
「でしょ?で、赤ワインを飲んでみて下さい」
香菜さんに言われるままに陽子さんは赤ワインを飲んで味わう。
「うん、アジアともフレンチとも言えない、初めての味わい」
「イスラムも入ってます」
「そうそう。美味しいし、なんていうか面白い味!今まで味わった事なくて面白い経験した感じ」
「面白い?味に面白いもつまんないもあるのかよ?」
タクさんのぼやきに陽子さんがぴしゃりと答えた。
「あるわよ。味わうって美味しいか不味いかだけじゃない。食感とか風味とか香りとか組み合わせとかで、楽しいか楽しくないかってあると思う」
「確かに。食べるって経験でもあるからなあ。うちの息子もいつか辛いとか苦いって味が楽しめるかもしれない」
「あの、私は子供はいないんですけど。前の旦那との間には出来なくて」
香菜さんは伏し目がちに切り出した。
「今後、子供を持てるかどうか分からないし、母親になれない人生を心のどこかで後悔してます。もっと不妊治療を頑張れば良かったかなって」
陽子さんは両手で口を塞いだ。
「あ、ごめんなさい。私、何も考えないで自分の気持ちばっかり話していて…」
「あ、全然。慣れてるんで。それに子供いないけど陽子さんの母親になって後悔してるって気持ち、分からなくはないんです。子供がいてもいなくても、人生が幸せかどうかなんて誰にも分からないし、それを決めるのは自分だと思うんです」
「…うん」
「で、人生が幸せだったかどうかなんて、死ぬ瞬間にならないと分からないと思うんです。自分自身でも」
「うん」
「苦しい事も悲しい事も色々経験したら、そのトッピングいっぱいのカレーみたいにカオスな状態で人生を楽しめるかもしれないじゃないですか。シンプルなカレーが陽子さんだとすると、ブルーチーズが息子さんかもしれない。どんどん初めての経験を増やして楽しんだもの勝ちですよ。人生なんて。幸せかどうかなんてどうでもいいんです。最後まできっと誰にも分からないんだから」
「楽しんだもの勝ちか…」
「そうそう」
「じゃあ、再婚相手がきっとフムスか柴漬けだな」
「うるさい!」
香菜さんと陽子さんがユニゾンでタクさんに突っ込む。
陽子さんはワイングラスを回しながらぼんやりと言った。
「幸せより楽しい人生かあ。確かに陽介がいて楽しいことは事実だなあ。 そう考えるとあの子はクセは強いけど、私の人生を楽しいものにしてくれてるんだなあ…」
自分はこの先、陽子さんのカレーのフムスか柴漬けになれるだろうか。
普段とは違う陽子さんの横顔を眺めながら、祐介は思う。
でも、今夜、祐介は分かった事がある。
母親ってその前にまず人間なんだ。
自分をネグレクトした母親を決して許せた訳ではない。でもちょっとだけ理解できた。ちょっとだけ近づく事ができた。
それが祐介にとっては予想外に嬉しかった。
スパイスの複雑な香りを嗅いだ時、このささやかな嬉しさを思い出せたらいいなと祐介は思った(終わり)
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