映画「大怪獣のあとしまつ」笑いとスケール感についての考察
今、話題沸騰の映画『大怪獣のあとしまつ』についての分析です。
(長いですがお付き合い下さい)
因みに私は特撮映画については語れるほど詳しくはありませんが
「世にもくだらないTV」「ごっつええ感じ」シティボーイズの舞台からの三木聡さんのファンで、三木さんの作品から笑いについて勝手に学んでいた信者に近い スタンスです。
なので巷で「盛大にすべっている」という評価が聞き捨てならず
(長い間、信仰していた教義を否定された信者の心境)
鼻息荒く拝見して参りました。
が、残念ながらそれらの評価を否定できませんでした。
なのでここでは「なぜあの映画において笑いがすべって見えたのか」を分析して
みました。
まず三木さんの笑いや作品の特徴なのですが
「くだらない」「シュールな設定」
「情緒がなく乾いている。ドライな笑い」
「日常の瑣末な出来事への哲学的考察」
「生理的不快感への視覚的アプローチ」
「煽るのではなく、温度を下げる事で不意をつかせて笑いをみせる演出」
などがあげられます。
「怪獣」を拝見している最中思い出したのは、95年に三木さんが演出した
中村有志さん、住田隆さん、布施絵里さんのユニット
「ヘビナ!演術協会」の舞台でした。
冒頭、照明が落ちた中、布施さんが企みの表情で持ったランプの炎を中村さん
(か住田さんか忘れた)の臀部に持っていきます。中村さんがめっちゃ力んで リアルに放屁し、そのガスでランプの火がボッ!と燃え上がるという演出におこる「おお!」という観客のどよめき。
そのどよめきには「くだらねえ事やってる」と笑うと共に「あ、おならはやっぱりガスなんだね!」と 誰もが子供の頃から数十年フワッと思っていていたシモな考えが明確化された事、それをいい大人が人前で視覚化する事を全力で実践した事への感動があったと思います。
あの炎から四半世紀強。炎が怪獣になっただけで
三木さんがやられている事は何一つ変わっていません。
くだらなさとくだらなさへの考察。
なんと還暦を迎えた三木さんですが、笑いを仕事にされている方は表方も裏方も 年を重ねたり家族や子供を持つと、芸風が丸くなったり社会派になったり
感動系ヒューマンの要素が増えたりするものです。
キレた笑いを提供してきた芸人さんが突如、手のひら返しをしたが如く、 ヒューマンファミリー主義になった時、笑いのファンだった人間はほのかな失望と白けを感じると共に「笑いを貫くのは体力が必要だし儲からないんだな」と
思ったりします。
しかし「怪獣のあとしまつ」において三木さんの芸風は四半世紀前と一ミリも
変わっておりません。子供が見る事を全く考えていないし、ジャニーズや土屋太鳳ちゃんに忖度するようなヒューマンな芝居場シーンも用意しておりません。
徹底してドライ。
その頑固さにある種の清々しさと感動を覚えました。
しかし、ずっと変わらない事をやられているのになぜ笑えないのか。
映画を見ながらずっと考えてましたが、二つの要因が考えられます。
一つは「三木さんの笑いは変わらないけど時代は変わってしまった」です。
ここ数年でポリコレによってかなりのジャンルの笑いが取り締まれました。
その中の一つに「不謹慎な笑い」があります。
三木さんの笑いはドライですがブラックではありません。風刺とも無縁です。
が、この映画では舞台が日本政府であり「国家の危機なのに要人達がポンコツでおこる事象が馬鹿馬鹿しい」という不謹慎さを笑う話なので、その度にポリコレで バージョンアップされた観客の価値観(私を含む)をざわつかせ笑えないのです。
そしてもう一つの要因。
これが最大の要因かと思われますが、それは「映画のスケール感」です。
この映画、脚本の段階では「ああいつものくだらない三木聡映画だね」と読まれていたのではないか。しかし撮るうちに笑いのシーンは「あら?」編集で繋げてみたら「あらら?あらーー」となったのではないか。
例えば大臣達の閣議シーン。演者は西田敏行さん、岩松了さん、濱田岳さん、また三木さんの笑いの通訳者、ふせえりさんに何気に芝居を外したことがない隠れコメディエンヌMEGUMI、等々。
日本のトップ喜劇俳優とトップバイプレイヤー達によるドリームチーム編成。
どんなつまらんセリフをぶっこんでも成立しそうなキャスト陣ですが、ここでの やりとりがとにかく外している。
なぜなのか。
それは皮肉な事に美術チームの気合と技術が要因かと思われます。
まずこの映画、松竹と東映の共同製作という事で今までの三木聡映画と比べて
キャストもバジェットも桁違いです。
美術チームにとっては「怪獣」とか「閣議」「国家危機」というシーンを ハイバジェットで手がけるチャンスはキャリア上、滅多にこないのでしょう。当然あらゆる経験、思い、己の技術を投入するぞ!という気合いと矜持が
画面からみなぎっております。
特撮ファンでなくても倒れた怪獣はなかなか迫力ある造形物だと感心するし、
閣議シーンにおいてトップライトを使用して演者の顔に影を落とし重厚感を感じさせる照明設計も気合いが入って、その他のシーンの画面の照明も「考えて設計したんだろうなー」とやたら豪華で、重厚感を感じます。
つまり美術からすごい「熱量」を感じるのです。
先に書いたように三木作品の特徴に「煽るのではなく、温度を下げる事で不意を つかせて笑いをみせる演出」があります。
カット割りや効果音や芝居で「はい、ここ笑うところですよ!」という事は絶対にしない。日常にギャグをそれとなく散りばめる事で不意をつかせて笑わせる。
煽ると観客の期待値が上がるので、笑えなくなるのです。
今回もいつも通り、決して煽った演出はしていない。
しかし美術スタッフによる熱量が画面に映り、観客の期待値を上げてしまった為、
三木さん往年の瑣末なギャグゼリフが悉く、すべって見えてしまったのだと思います。(特撮ファンに至っては、美術で期待値が上がっていたのでギャグで台無しにされたという怒りになったのだと思います)
本来、この話は「ごっつええ感じ」のコントになるような設定でした。
怪獣を適当なビニールで脚だけ作ってスタジオに置き、明るい照明の平べったい 画面(安く見える画面)で議員達が「ああでもないこうでもない」とくだらないやり取りをしていたら、観客も「ああ、コントね」と同じセリフでも結構「ププ」となったのではないか。
もしかしたら三木さんは「めっちゃ金のかかった重厚な画面で瑣末なくだらないやり取りをする笑い」という狙いがあったのかもしれませんが、しかしそれは残念ながら計算ミスといった感じでした。
今回の映画鑑賞で「笑いとスケール」について非常に考えさせられました。
この件を最初に気付いたのは97年?くらいに放送されたCXの「HEY3」の
生放送SPです。確か年末のSP番組で会場は代々木第一体育館。
この時のMCでダウンタウンの松っちゃんがかなりすべって大汗をかいていたのです。当時の松っちゃんといえば、ギラギラしたお笑いジャックナイフ時代。 発言するギャグが全てキレを見せて落ちる、笑いのカリスマ時代でした。
その松っちゃんが観客を掌握できず、大汗をかいている。
それはダウンタウンも生放送の歌番組で、しかも観客が満員のでかい代々木の会場でMCをしたのは初めてだったからだと思います。
そのスケール感を前にいつも通りのギャグを披露したら、空振りになった。
「ああ、笑いを披露する時、客層だけでなく、会場の大きさやスケールを重視しないと同じことやっても受けないんだな」と気づかされました。
それ以降、例えば長野オリンピックの閉会式における欽ちゃん。
蒸し返すのはあれだけど去年の東京オリンピック開会式のコバケンさんの ピクトグラム演出。
皆、私が尊敬する笑いのカリスマでいつも通り自分の才能を披露した。
しかし結果は悲惨だった。
その理由は「どちらも小さい会場で披露するネタだった」
「会場のスケール感を計算できなかった」
のだと思います。(というか中々、お笑いの人はドームなどの大きな会場の場数は踏めないので計算できないのはやむおえなしですが)
そして今回の「大怪獣のあとしまつ」もスケール感故、笑い部分が残念なことになってしまった。
「どんな人が、どんな場所で、何をさせるか」
三木聡のコント三原則。
大スケールを背景にした2時間のストロークを見せなければならない映画に、
この三原則は通用しなかった。
最後にフォローとして私が一番好きな三木聡映画は「ダメジン」なのですが
あの映画は町田康、西村賢太(泣 追悼)が描く純文学にある
「ダメ男のダメな話」を映画でやられた傑作だと思っております。
常々三木さんの映画のドライな作風から純文学の味わいがあると思っております。
これは他のお笑い系クリエーターが作る映画にはないものです。
今後はあまりハイバジェットではない規模で、三木さんの瑣末な笑いを貫く映画を
コンスタントに作る、というウディアレンのような誰もが憧れるクリエータースタンスであったらなと願っております。
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