「大笑いする」ってことが私の人生の目的だとさっき分かった
日光という地名、すごいですよね。日の光が強いんでしょうか、太陽大好きなんでしょうか。月光はあるんですかね。今ちろっと調べたら、目黒区の旧地名に月光町という地名があったらしいです。月光というとガンダムの月光蝶を思い出すのですが、なんだか設定の記憶が曖昧で。というか最近、昔の記憶が曖昧です。小学校や中学、高校、大学、成人してからの記憶もあるにはあるのですが、じゃあ何をしていたのか、何を考えていたのかというと、何も思い出せないですね。断片的な印象が、ふわ、ふわとあるような。今実験してみようと思います。記憶という湖があって、いろいろな色の木の葉が浮かんでいて、その湖に向かって、「中学の部活」という光を出すライトを照らすと、関連の記憶の木の葉がじわーっと、こちらに漂ってきて、その木の葉を拾い上げると、今はですね、部活の2年生の頃でしょうか。中学校時代、私はサッカークラブ入っていて、まぁあんまり上手じゃなくて、後輩に侮られてしまって、まあ喧嘩してしまったという苦い思い出を拾ってしまったみたいですね。こんなふうに、同じ光を出すライトでも、その時々によって、拾う木の葉が違うのは面白いですよね。でも言葉を選ばずになんとなく思い出すと、嫌な記憶を拾うことが多いんですよね。嫌な記憶の方が記憶に残りやすい、というのはあるのかな。ソフトクリームを食べた、とか、褒められた、とかあると思うんですが。これは例えば、賞をもらったとか、そういう目に見える大きな良い思い出、みたいなのがあれば、良いのかな。そういう意味では、自分の中で一番の賞は小学4年生の頃、右肘を骨折した時のことを書いた作文が県に入選したこと、というのが浮かび上がってきましたが、それと同時に、そういえばその作文に相当、先生が添削・修正したなぁとか、余計な思い出まで思い出したので、なかなか100%の良い思い出が出てこないんですが、ひょっとして私は悲しい記憶しかないのかな、と思ったんですが、そんなはずはなくて。大笑いした時って、もうその時の楽しさ、嬉しさっていうのは、その瞬間のことで、ほら、小学校とか中学校とか、しょうもないことで友達と大受けして、本当に笑いが止まらない、みたいなことがあるじゃないですか。その時間っていうのは奇跡というか、嘘でしょう、みたいな。魔術的な。一度限りの魔術的な。魔法の時間というか。魔法は切れるものだから、再現性はないんですかね。もしも大笑いの記憶をしっかりと再生できれば、自殺する人なんていないんじゃないかな。大笑いって、子供時代の、お金の心配をしなくて良い時じゃないと、なんか純粋に100%の感情の発露って起こらないような気がするんですよね、感受性ももちろん大事だけども。そういえば社会人になってからずっとお金の心配をしているような気がする。お金の心配をするって、別に楽しいことじゃないし、そもそも心配しても全く意味ないんですよね。お金が足りないなら働くか、とりあえず借りるか、もらえるならばもらうかしかない。で、大抵の場合、借りるは根本的な解決にならないし、もらえる機会はあんまりないから、結局は自分が働くしかない。まぁ投資してFIREすれば、お金の心配から解放されるかとも思うんですが、じゃあ100%安心できるかって、何があるかわかんない、と思っちゃうと、資産10億あっても大笑いできない。ということはお金の問題じゃなくて、心構えの問題なんですかね。生活がきちんと回っていれば、貯金が10億でも100万でも百円でも良くて、お金について謎の心配をする癖をどうにかしないと、貯金10億でも日本円の価値が落ちたらどうしようとかしょうもないこと考えて、大笑いできなさそう。
そうだ、私は大笑いしたいんですね。私は人生でやりたいことは、大笑いして生きていきたんですね。うーん、なんというシンプルな目標だったのでしょうか。え、今日、人生の目的がわかった、ということでいいんでしょうか。「大笑い」、という光のライトで、記憶の湖を照らしてみましょうか。笑って、笑って、腹が痛くなって、幼い姪っ子の発言に、その子のお姉ちゃんと笑い合っている記憶が出てきましたね。発言の内容は思い出せないけれど、大笑いしてるってことは幸せな時間なんですよね。幸せっていうと、何が幸せなのか、みたいな定義づけの話になってややこしいですが、私にとっては大笑いってことらしいです。ああーなんかスッキリしました。大笑いするために生きます。大笑いするためには、普段から何事につけても笑い上戸になるに限ります。これからの人生、全て大笑いするためには、という基準で何事も決めていけばいいですね。ずいぶんシンプル。シンプルな人生の定義、いいです、おすすめです。
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