「受け入れる」という考え方は危険?
「受け入れる」という考え
今日、様々な場所で「多様性を受けれよう。」「マイノリティーを受け入れよう」といった言葉を耳にします。
ダイバーシティとインクルーシブはしばしばセットで使われます。多様性に関する教育について言及する際には、インクルーシブ教育という概念や言葉も使用されます。
包括的であることが必ずしも悪いことではありません。しかし、【 この考え方の根底には、しばしば危険な考え方が含まれている場合があります。】
カテゴライズの問題
「受け入れる」という考えが、なぜ危険な考え方を含んでいると言えるのか、そして、それはなぜ言えるのかを以下では説明いたします。
区切り方は無数に存在する
カテゴライズの方法、区切り方は無数に存在します。年齢や出身、育った場所、母国語といった言及されることの多い境界線から、趣味や味の好みといった言及されることの少ない境界線まで様々な境界線に沿って引くことが出来ます。
さらに、境界線は無数に存在するだけではなく、複雑に交差しています。
例えば、「日本人」「外国人」という線引きをした場合を考えます。「日本人」の中には日本語母語話者である人もいればそうでない人もいるし、女性である人もいればそうでない人もいる。そして、宗教や年齢などその他さまざまな異なった要素を持つ人々がいます。
人には様々な要素が存在し、境界線選び方は無数に存在します。
【 つまり、私たちは全員が全員と異なり、マジョリティーやマイノリティー、「他者」というのは相対的なものであると考えることが出来きます。】
「受け入れる」に含まれうる考え
上記で述べたように、他者との境界線は無数に存在し、私たちは全員が全員と異なると考えることが出来ます。
「そんなことはわかっているよ。」と思う方は少なくないでしょう。【 しかし、「受け入れる」という考えにはしばしば、この考えに反する考えが含まれている場合があります。】
境界線の協調
「受け入れる」という時、そこには前提として「他者」がいます。ここでいう「他者」とは、違う立場の人、境界線の反対側の人を指します。
「受け入れる」と言う時、無数にある境界線から一つの境界線を選び、それに沿って、自分と「他者」との差を強調していると言えます。そして、同時に「受け入れる」という表現には差別的な思考が含まれる場合があります。「受け入れる」と言った時、主体は自分であり、自分は「受け入れる側」になります。つまり、「受け入れる」という主張は、「受け入れる側」と「受け入れられる側」を創った上で、それを「受け入れてあげる」という主張になり得るのです。
【 個々人がみな異なるにもかかわらず、任意の境界線で「他者」をつくること、そして創った「他者」を「受け入れる」と考えることは差別意識の始まりにもなり得ます。】
多様性は理解することが大切
上記のように、「受け入れる」という考えには危険な考え方が含まれている場合があります。そのため、全員が全員と異なるということを理解し、「受け入れる」という表現に危険な考え方が含まれうるということを理解する必要があります。
そのため、【 多様性は「受け入れる」のではなく、理解することが大切であると考えることが出来ます。】
現実的な問題
目立った境界線が存在することも事実であり、それにより差別を受けたり抑圧されている人が存在することも事実です。
多様性を理解しようと主張するだけでは、これらの現実的な問題を解決することは難しいかもしれません。そして、これらの問題を解決するために、境界線を強調することも必要な場合もあるかもしれません。
しかし、多様性を理解したうえで行えば、新たな差別が生まれることは防げるでしょう。【 大切なのは、安易に「受け入れる」と主張することではなく、多様性を理解したうえで考え行動することであると言えるでしょう。】
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