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セミを追いかける少年は、ただ好奇心に溢れていただけだ

止まったセミを、木の下でひたすらに眺める少年がいた。
そこは学校の昇降口の外。
少年は靴無しで、右足に靴下を履き、左手にもう一つの靴下を持ったままだった。

もうひとり少年が、出てきた。
その子は上履きを履いたまま。

先生なのか支援員の方なのか、上履き少年を追いかけてきて背後から引っ張っている。
「まだごちそうさましてないでしょ!上履きのまま出ちゃダメ!」

その間も片足靴下の少年は、セミに夢中である。
ふたりとも、小1不登校ムスメと同じ色の名札をつけていた。
(同じクラスの子なんだな。)


ムスメの唯一の登校日、カウンセラーさんとの給食の日である。
終わるころに迎えに行き、外で待っていたときの光景だ。

この光景が人によって、果たしてどう映るのか。【人の価値観の違い】

あたりまえの概念が私自身の中で変化したことを感じ、心の中を静かに何かが巡った。

セミに興味が引かれて外に出てきた少年が、私の中ではもうあたりまえだと感じた。
彼は、セミという好奇心に溢れている。

「鳴いているセミを見たかった」その好奇心
靴下も靴も履く時間がもったいないほど、早く見に行きたかった好奇心

学校への興味がなくなった我が子たちを見てきて、この好奇心をみつけることがどれだけ大変で、愛おしいことなのかを知った。


子供を校舎内に戻そうとしている先生が、私がいることに気がつき、少年に話すことばの語尾がやわらかくなる。

いまのクラスには、これからもムスメちゃんは行かない気がした。

彼女はもう、学校以外にも他のあたりまえがあることを知ってしまっているから。

他の子たちが騒いで怒られている姿を見ることは、ムスメにはストレス以外の何者でもない。

『身体的暴力よりも暴言的暴力を見聞きするほうが、脳へのダメージが6倍多く残る』そんな事実が分かっているらしい。

ことばの暴力は自分が受けても、他人が受けているのを見聞きすることも、こころに大きな負担をかけてしまう。

学校に行くのがあたりまえだった以前の私なら、どうしていたかって‥
学校に行ける道をなんか考えないとかな…とか夏の終わりまでは、思っていた。

でも、セミ少年を見ていて、思いが変わったような。そんな気がする。


給食が終わって、降りてきたムスメとカウンセラーさん。

「娘さん、発達検査ではADHD・知的低めと出てましたけど‥違う気がします。これは検査の穴だと思います。」
『わたしも日頃見ていて、そう思います。読み書き、計算も相応にできますし、漢字も読めるようになってきました。』

来週、ムスメの担任・支援級・カウンセラーさんを交えて面談をする。
来年のクラスに向けて、相談する場だ。

(ムスメには、少人数のクラスがいい。)
発達検査の結果もそうでたのなら、、支援級かな。

それでいいと思っていた。

セミ少年を見るまでは。

おそらくムスメは疾患名としては使われない『HSC』なんだと思う。実際のところ。

でも名前をつけようと思うと、今の検査ではADHDなのかもしれないし。

初めての場所が苦手な子にとっては、検査で力を発揮することができずに知能が低く出たのかもしれない。

これが『検査の穴』実際の力を見ることができなかった結果。

こういうことが起こりうることを、わたしは知っている。

例えば《肺活量検査》
患者さんにも最大限頑張ってもらわないと、簡単に数値が低く出る。
努力させようと、技師は大きな声で分かりやすく伝わるような声がけをする。

「もっと吸える!もっともっと〜頑張って〜〜!!」

「はい。楽にしてください、お疲れ様でした。頑張っていただいたおかげで、いい値が出ましたよ。」

本人が頑張らなかったら、数値が悪く出て、あっという間に肺疾患の病名がつくわけさ。


もう一度イチから考えよう。
ムスメにとって何がいいのかを。

夏の終わり。秋の始まり。
答えはひとつじゃないはずだから。



◎HSCの親は「ほかとは違う親になる覚悟」が必要なのだ。


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