レンガの中の未来(二)
(二)意識
シノー達が作業をする場所から数百メートルの所に小高い丘があるが、そこには全くの別空間が広がる。その丘には幹部用の建屋がある。
建屋と言っても、地下室や娯楽施設も兼ね備えている、庶民にとっては宮殿のような建物である。常時数十名の幹部が事務机を並べ、レンガの流通状況把握業務や関連事業部の者が出向という形で業務を行っている。
「今週の受注は千二百五十トンになります。」
「それは関係部署より既に聞いた。」
「やや無理な受注の印象ですが…。もっと人員を足しませんと。」
「それは私が関与する内容ではない、上の指示通りに動くのみだ。余計な事
は考えるな。」
「…はい。」
「何か不満でもあるのか?」
「いえ、とんでもございません、承知致しました。」
「あと、もう一つお話が。」
「何だ?」
「作業労働者宿舎の件でございますが、長年使用されている事から、設備の老朽化が進んでおります。労働環境に加え、日々の宿舎内環境も悪化しておりまして、このままですと」
「待て、そこまでだ。」
「はぁ。」
「お前はお前が管轄する仕事のみを行っていればそれで良いのだ。余計な口出しは無用だ。もう下がってよい。」
セリョージャ一族のレンガ事業に関する組織構成は、国軍組織を基に形成されている。
上から統括卿、財務管轄部、整備部隊、諜報部隊、人材調達部隊、原材料調達部隊、労働部隊、雑役部隊となり、上部隊・組織から下部隊・組織への命令は絶対であり、定期的な会合も名ばかりとなりつつある。
上述会話は、財務管轄部隊長と労働部隊副隊長の会話である。これはレンガ事業だけの話であり、無数にあるセリョージャ一族の全体像を把握している者は殆どいない。
シノーの作業現場の様子をもう少し見てみる。作業場に徒歩で到着すると、粘土板に記載されたグループ表を確認する。
粘土板上の内容は週頭に変更される。よって、週頭は作業者にとっては変化の訪れでもある。粘土板に書かれた文字は毎回書く者が異なるので、ある週は非常に達筆の時もあれば、ある週はミミズが走ったような解読不能な場合もあった。
今週は、型嵌か。シノーは小声で呟いた。型嵌なら体力を温存できる、良かった。型嵌は、レンガの型が組み込まれた棒状の粘土状最長を四方約三メートルの固まる前糸状紐でのレンガ原材料に型枠をしていく作業である単純作業ではあるが、粉砕業務に比べればよっぽどましである。
粉砕業務の週では、昼食時のフォークもまともに手に持つ事が出来なかった。
今週はH一四三というシノーと同年代と思われる者、G八九八というシノーより少し年代の上の者、そしてT二二八という初老の者で四人組となった。このアルファベットと数字の組合せは、監視員が労働者を管理するために設けられており、労働者はその名札を身体の何処かに身に着けている。
粘土板には、H一四三は原材料調達、G八九八は粉砕、G六五五であるシノーは型嵌、T二二八は成型、という役割分担であった。シノーはこのT二二八という初老の者とは初対面だったが、一目見た瞬間に嫌な予感がし、実際それは裏切られる事はなかった。
最初の2日間は特に問題なく、皆各自の作業を実施していた。それは週の中頃の昼前のことであった。
「おい、T二二八!、工程通りにやらないと今日中に終わらないじゃないか!何ちまちまやってんだよ!」
シノーがいつものように黙々と型嵌をしていると、H一四三の奇声気味の声が背後でこだました。
「分かった分かった、はやくそれをよこせ。ああ、そっちじゃないよ、その検品済のやつだよ。」
「ああ、すまんね…。そっちだね。最近眼が良く見えなくなってねぇ。」
「ふん、そんなこと知るかよ。早く終わらせないと、俺の休憩時間が無くなるじゃないか、さっさとしろよ。ああぁ、もういいよ、俺がその成型をやるから、T二二八、お前は俺が運んできた原材料をG八九八と細かく砕いて早くこの炉に流し込め。それくらいは出来るだろ。」
シノーは二人のやり取りを見ていたが、特に言葉を発する事はなかった。G八九八も同様に自分の役割に埋没していた。H一四三の大声を聞きつけて監視員がやってきたが、状況を把握するやいなや、何も言葉を発せずにその場を立ち去った。
シノーは宿舎へはいつも一人で帰るのだが、その日の帰路は、T二二八とシノーの二人となった。というよりT二二八を待っていた。
「今週は忙しいなぁ。」
シノーは半分励ましの意味を込めて独り言を言ったふりをした。
初老の男であるT二二八は、それを聞くと
「そうだねぇ。いつも忙しいがねぇ。それにしてもああ、今日もヘマしちまったよ。」と反応した。
「ここ最近はよりノルマがきついですからね。」
「ああ、そうかもしれないがそれにしても自分が不甲斐なくて仕方ないよ。だってそうじゃないか、あんな若造にダメ出しを食らって、ああぁ、消えてなくてってしまいたいよ。」
二人の中で静寂が十秒程経過した。
「来週は良い人員配置になるはずですよ。」
「そうだといいのだがねぇ。お、あちらから鳥の群れがやってきてるじゃないか。」
初老の男は咄嗟に空高く飛ぶ鳥の群れを指指した。その後、その鳥の群れはシノー達の上空を通過した。鳩の群れだろうか。日が長いと言っても空は薄暗くはっきりは見えない。
しかし、V字の右下端しには小鳩と思われる一回り小さな鳩が懸命に集団につこうと羽ばたいているのは、シノーの眼から確認できた。
「鳥達は良いですね、自由に飛べて。」
「うん。」
「違いますかね。」
「そうかもしれないが、俺は人間のほうが良いかな。」
同意を求めて発言したシノーであったが、その初老の男の意外な返答にやや驚いた。
「そうですかね。」
「ああ。だって、野生動物は生きるのが大変だと思うぞ。毎日定期的に食事が提供されるわけではないし、寝床だって粗末なはずだ。只、俺が思うに人間、いや、神様なのかな、最大の罪は人間に知性や理性を与えたことだと思うな。社会性と今では言うのかね。しかも極端な程にね。だってそうじゃないか、食べて交わって寝る。これ以外の事が生き物に必要かね。食べて交わって寝る、とても単純かもしれないけど、野生動物はそれを好しと日々生きていると思うんだ。」
初老の男の意外な言葉にシノーはどう応えてよいか躊躇した。そして、その初老の男は更に続けた。
「ワシはこう思うんだよ、生き物は毎日、寝る事で死ぬ練習をしていると思うんだよ。お前さんだって、毎日寝ているだろ。その時何を考えている?」
「はぁ。」
シノーはそんな事を考えた事はなかった。疲れたから寝る、明日の体力維持の為に寝るものと思っていた。初老の男は続けた。
「だって考えてもごらんよ。我々の足元を歩いているアリ達が、明日のことなんて考えているかねぇ。今俺がこの足で地面をドスンとしてみる。すると確実に数匹のアリは死んでいるよ。その踏み潰ぶされたアリ達は明日の事なんか考えてないと思うが、我々の知らない領域に行くんだよ。そりゃあ昆虫や野生動物の中にもある程度の社会秩序はあると思うよ。でも人間の場合はそれが極端過ぎる。俺は食べて交わって寝る、これで充分と思うね。」「死ぬ練習ですか…。」
シノーは初老の男と宿舎前で別れた。シノーはそれから目の前から色彩が消失し、白黒の情景になった。楽しいはずの食事の時、何の味も感じなかった。
その日は沐浴の日だったので、リラックスしたつもりだった。ベッドに入る前の身支度時にも特段昨日とは心境は変わらないつもりだった。ベッドで考えた。そうか、今やっている事は全て死ぬ練習なのか。
これまで全く考えた事のない事だった。明日起きるのが当たり前と思っていたけど、確かに起きることがなかったら怖い。食べて交わって寝る。サーシャ…。今頃何をしているんだろう。
もう結婚してしまったのかな。これまでは明日なんか来るなと思っていた。でも、先程の話を聞くと急に心境が変わり、眠れなくなった。シノーの隣、或いは二段ベッドの上の者はグーグーと鼾を立てて寝ている。
このまま自分も眠りに入って明日朝になっても意識が戻らなかったら…? この意識というのは一体何なのだろう。シノーはこれまで経験した事のない感覚で身体の置き所に困り、しばらく眠れなかった。