レンガの中の未来(八)
(八)手紙の行方
何とかなる。シノーは自分に言い聞かせた。イリンとシノーは、一緒にセリョージャ宿舎に向かっていた。陽は既に西の空に沈もうとしている。
夜になれば松明の灯りと月明りのみが頼りとなるが、本日は曇りである。これからどうすれば良いのだろう。
「イリン、早くしないと宿舎に着く頃には真っ暗だよ、早くしないと。」
木の枝で地面に絵を書いていたイリンに、シノーは急ぐよう言った。
「わかった。これ、昨日僕が言った三十個のお月様のことだよ。三日月と逆三日月がじゃんけんしているんだ。」
シノーはイリンの話の半分しか頭に入らなかった。
結局、朝食後にイリンと自分の荷物を素早くまとめてイリンと共に家を出た。荷物をまとめている間、シノーにはイリンの事しか頭になかった。
これまでも先ほどのような陰湿な事が沢山あったのだろう。課外学習にも行きたかったはずだ。使用人はイリンの能力の事を話していたが、それであのような処遇に置かれるのは明らかにおかしい。
このままあの家に居れば、イリンの精神を蝕んでしまう。ノルギーはその辺は熟知しているはずだ。
しかし、二人で家を出て少しすると、段々頭が冷静さを取り戻してきた。イリンを宿舎に泊めることは許されない。どうすれば良いのか。最初のうちは、宿舎の人を説得すれば何とかなる、場合によってはイリンを雇ってもらえないか交渉すれば良い、と考えた。
その一方で、こんな小さな子供が劣悪環境での労働に耐えられないだろうという考えがシノーの頭に浮かび、種々考えが交錯した。
そんなことをシノーが思案していると、後方から大声が聞こえた。振り返ると、ノルギーの夫が駆け足で追いかけてきていた。二人まで追いつくと、水を少し口に含み荒い息が整うのを待ち、口を開いた。
「ああ、間に合った。本当に大丈夫なのか、イリンを連れていって。」
シノーは、今まで頭の中で考えていた不安材料をその男にぶつけようとしたが、
「ええ、恐らく大丈夫です。事情が事情ですから、宿舎の担当の方にも理解して頂けると思っています。」
と何故か強がっていた。
「本当だな。今からでも遅くはないんだぞ。今から戻れば、昼には家に戻れる。そこから少し休憩しても、兄さんだけの脚なら夕方には宿舎に着けると思うぞ。」
「ええ、大丈夫です。二人で何とかやっていきますから。再来週には選抜試験がありますし、それに合格すれば私の環境もかなり変わるはずです。」
「本当に本当だな。であれば無理には止めない。」
ノルギーの夫は、それを言い終えると持っていた布袋から数枚の紙幣と手紙を取出し、シノーに差し出した。
「これは少ないが取っておくと良い。」
そこには千ビーズ紙幣が五枚重なっていた。シノーが躊躇すると、
「良いんだ、取っておきなさい。金があって困る事はないからな。あとこの手紙は、ええと、サクイルからだ。途中で読むと良い。」
「良いんですか?こんなに沢山頂いて。それにお手紙まで。」
サクイルは例の使用人の名である。ノルギーの夫は、使用人と只ならぬ関係にもある。
「良いんだ良いんだ。これまで俺はイリンに大したことやってやれなかったから、その分も含まれている。」
「有難うございます。退路を断ったようなものですので、自分の力で何とかするしかないと、今はすっきりとして気持ちです。」
「そうか、そこまで覚悟を決めているのであれば、逆に安心したよ。ただな、何度も言うがいつ戻ってきても良いんだからな。」
ノルギーの夫は、シノーの隣にいるイリンの頭を軽く撫でた。
「お前には才能がある。だから大丈夫だ。」
「わかった。」
ノルギーの夫はシノーに顔を向けた。二人は数秒間、無言で互いの顔を見ていた。
道端の松明の灯りは予想以上に暗いものであった。宿舎まではあと少しである。イリンは疲れ切っているのか口を開かない。
これまでこんなに長い距離を歩いた事はないだろう。もう少し早く来ていればとシノーは思った。理由は幾つかある。
一つは宿舎の関係者に事情を早く話し、牛舎でも良いからイリンの寝床を確保しなくてはいけない。そもそもそんな突拍子もない話をこれからしなくてはいけないのだ。
あとは目の前を走っている幹線道路である。馬車が猛然と突進してくる幹線道路を四つもすり抜け、目的地につかなくてはいけない。
本日は月明かりを頼りにする事はできず、足元には幾つもの石ころがあり、時折馬車輪と接触し弾き出されていた。
しかも、交通整理をする番人の数も本日はいつもより少ない。シノーは以前にこの幹線道路を横切り、その向こうにある原材料調達場の一つへ行く事があった。
その時は晴天で見通しが良かったが、馬使いに慣れていない馬車は散見され、あわや接触という場面もあったのだ。
シノーは、交通整理の番人に声を掛けた。
「こんにちは、今日は特に事故は起こっていませんか。」
番人はいきなり声を掛けられたことに、やや驚いたようだったが、シノーの風貌から労働者階級と即座に判断した。
「ああ、今日は特には事故は起こっていない。」
「そうですか、それは良かった。もうすく渡れますかね。」
「ああ、向こうから来る数台の馬車が通り過ぎれば、渡れるだろう。」
番人は右手でその馬車を指指し、シノーもそれを薄明りの中で見た。
シノーはタイミングを見計らって、横にいるイリンに声を掛けた。
「イリン、行くぞ。」
「わかった。」
疲れ切っているイリンに対して、余計な説明は却って良くない。シノーはイリンにそれ以上言葉を掛けなかった。
例の数台の馬車の最後の一台が目の前を通り過ぎるのを見て、二人は道路の横断を開始した。数秒後、横断を完了した。
「よし、その調子だ。あと三つだからね。」
「うん、わかった。」
この調子なら大丈夫だ。シノーは思った。実際、二つ目の道路も問題なく通過できた。よしよし、とシノーは心の中で呟いた。
三つ目の道路の目の前に来た。そこにはいつもいるはずの交通番人はいなかった。しかし、一つ目、二つ目の道路と違い、馬車の数は少ない。
「よし、渡るぞ。」
「うん。」
シノーはイリンの手を引き、走り出した。数歩走り出すと、つるりとシノーとイリンの手が離れた。
ほぼ同時にイリンの服から、紙切れが道路に落ちた。使用人サクイルからのものだ。
「あ」
イリンはその手紙を拾おうと、ひらひらと風で飛んでいく手紙を追いかけ始めた。
「そっちに行くな!」
と、次の瞬間だった。イリンの目の前には、老馬が引く馬車がいた。