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【京都観光の豆知識】東寺が残って西寺が衰退した理由とは?

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東寺と西寺は、平安京の南端に位置し、国家の守護と王城の鎮護を目的として794年に創建されました。しかし、時が経つにつれ、西寺は衰退し、やがて消滅してしまいました。一方で、東寺は現在も京都の名所として多くの観光客を魅了しています。この記事では、なぜ東寺が繁栄し続け、西寺が衰退したのか、その理由をまとめました。

東寺と西寺の歴史

創建

平安京の造営とともに、東寺と西寺は794年に創建されました。これらの寺院は、羅城門の東西に配置され、東寺は羅城門の東に、西寺は西に位置していました。両寺ともに、東西約250メートル、南北約510メートルという広大な敷地を持ち、国家と王城の守護を目的として設立されました。820年頃までには、両寺ともに完成し、平安京の宗教的、政治的な要として重要な役割を果たすことが期待されていました。

空海と守敏の対立

823年、嵯峨天皇は東寺を空海(弘法大師)に、西寺を守敏にそれぞれ委ねました。空海と守敏は共に真言宗の僧でありながら、ライバル関係にありました。翌年の824年、平安京では干ばつが続き、空海と守敏は雨乞いの儀式で対決しました。この儀式において、空海は成功を収めた一方で、守敏は失敗しました。この結果、空海の名声が高まり、その後の東寺の発展に大きく寄与したとされています。この対決が西寺の衰退を加速させた要因の一つであると言われています。


西寺の衰退要因

水はけの悪さ

西寺の衰退の一因として、その地理的条件が挙げられます。西寺が位置していた地域は水はけが悪く、湿地帯に近い環境でした。このため、住環境としては適しておらず、次第に人々は西寺の周辺を避けるようになりました。特に、農業が行われるような土地としては不適切であり、人口が減少していったことが、西寺の衰退を促進しました。

国からの援助の途絶

西寺は国家財政の破綻により、官寺としての役割を果たし続けることが難しくなりました。国家からの援助が途絶えたことにより、寺院の維持や再建に必要な資金が不足し、修復や再建が困難になりました。このことは、次第に西寺の荒廃を招き、最終的には寺院としての機能を果たせなくなりました。

火災

990年、落雷による火災で西寺の主要な建物が焼失しました。その後、再建が試みられましたが、度重なる自然災害や国家の支援不足により、復興は困難を極めました。さらに、1233年には西寺の五重塔が再び焼失し、以後再建されることはありませんでした。これにより、西寺は次第に人々の記憶からも消えていきました。

地域の衰退

西寺が位置していた地域自体も次第に衰退し、住民が減少しました。もともと湿地帯にあり、農業にも不向きな土地であったため、都市としての発展は見込めませんでした。これにより、西寺周辺の経済活動も縮小し、寺院の維持がさらに困難になりました。

東寺の発展要因

空海の影響

一方で、東寺は空海(弘法大師)の影響を強く受けました。空海は真言密教の中心地として東寺を発展させ、宗教的な権威を確立しました。空海が行った灌漑事業は成功を収め、その成果が評価されることで、東寺は天皇や貴族からの庇護を受けることができました。これにより、東寺は度々の火災や災害にもかかわらず、その都度再建され、現在に至るまでその姿を残しています。

庇護と再建

東寺は何度も火災に見舞われましたが、その度に天皇や権力者からの庇護を受け、再建が行われました。例えば、960年と1086年に発生した大規模な火災後も、すぐに再建が行われ、寺院としての機能が維持されました。このような背景が、東寺の継続的な発展を支える要因となりました。

信仰と文化的価値

さらに、東寺は空海への強い信仰心を背景に、多くの人々から支持されました。空海が行った宗教的活動やその思想は、後の時代にも影響を与え続け、東寺は真言密教の中心地としての地位を確立しました。また、その文化的価値も高く評価され、1994年には世界遺産に登録されました。これにより、東寺は現在でも国内外から多くの観光客を引きつけています。

現在の西寺跡

現在、西寺が存在していた場所は、京都市南区唐橋西寺町に位置しています。現在は「唐橋西寺公園」として整備されており、観光地としても訪れることができます。公園内には「史跡西寺址」の石碑が建てられており、1959年からの発掘調査により、講堂跡が確認されています。この公園は、西寺の歴史を偲ぶ場所として地元の人々に親しまれています。


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