『自分とか、ないから。』を読んで その5
さて、いよいよ5章。親鸞の哲学「他力」に来た。
「親鸞の哲学」って言葉に、すごい違和感を感じてるけど、まあ書いてみよう。と言っても、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」の「悪人正機」を中心に書こうと思う。(いつもの倍くらいの長さになってるけれど、よろしくお付き合いください。)
さて、この話。たとえば、凶悪な犯罪を犯した人間がいる、とかってニュースになると、「お前のところの宗教は、あんな奴でも赦すのか?」とかって、決まって突っかかってくる人がいる。
それに対する回答は、そもそも「善人」と「悪人」の定義が間違っている。「善人」は自力で仏になろうとする人を指し、「悪人」はそれができない人を指している。つまり、「善人」「悪人」と言っても、人の世界で言うところと意味が違うから、犯罪者を赦す赦さないというようなレベルの話とは違うんだ、と言うのが正しいらしい。
何で「善人」「悪人」が指しているところが違っているのかは、後で説明するとして。
ただ、そういうことを抜きにしても。
そもそも「往生をとぐ」っていうのは、仏の世界である浄土(特に、阿弥陀仏の世界である極楽浄土)に「生まれ往く」、それを「とぐ(とげる)」だから成就する(あるいは結果としてそうなる)ということ。
そこに「赦す」「赦さない」は関係ない。「赦したから行ってよし」とか、「赦さないから行かせない」とか、そういう条件は付いてない。
「赦されない罪を犯すような奴が行っていいのか」と言いたいのかもしれないけど、それこそ「それはあなたの考えでしょ?」。
仏の考えは違うってことだ。
人の世界だと罪を犯した人に対して、まず「赦す」「赦さない」っていうのがあって、「赦さない」となれば今度は「裁く」ってことがあって、その結果有罪となれば「罰を与える」とかいうことになる。で、一番重い罰ってことになると、「死刑」とかになるわけだ。
でも仏教の世界には「地獄」がある。地獄は「死んだくらいじゃその罪を償えない人が行く場所」のことだから、そこに在るのは人の世界の「死刑」よりも、もっとずっと重い罰。
そういう「地獄行き決定」ってなった人でも「救う」と言っているのが阿弥陀仏である、と。
もう一度言うけれど、「救う」ってことと「赦す」ってことは違う。「赦したから救う」んじゃない。「赦されないままに救われていく」っていうこと。
そもそも仏教の最終目的は「仏に成る」ってことで、どの宗派も仏に成るための道筋を説いていて、どの道を通っていくかが違うだけ。
だから、結局は自分でやらなくちゃならないんだけど、一番簡単な道が阿弥陀仏にお任せする、ってことだと浄土系の宗派は言っている。
もう自分じゃどうしようもないところにまで行っちゃって、地獄へ行く道しか残されていないような人は、それが嫌なら「そういう人でも救いますよ」と言ってくれる阿弥陀仏にすがるしかない。
そのことをひっくり返して、「地獄行き確定って人を真っ先にして、阿弥陀仏は救いの手を差し伸べようとする」と親鸞聖人は言う。それが、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉になっている。
けれども、「悪人なんて自分とは関係ない」「何も悪いことなんてしていない」と本当に言えるのか、と問うてくるのも仏教。
たとえば嘘をつくのは他人を騙すことだし、人の悪口を言うのはその人を勝手に裁いて、心の中で切り刻んでいるわけだし、無視するっていうのはその人をいないものとして扱う、つまり心の中で殺しているようなものだし、怒りで目の前が見えなくなったり、人のものを欲しがったり、いい加減なことを言って人を惑わしてしまったり……。
生きていくためには誰しも、無自覚にそういうことをやってしまっているし、またそうするしかない場面すらいくつもでてくるわけだけど、人の世界の法律に触れていないから、何の罪も無いと言えるのか。頭の中ではどんな酷いこともやってのけるのが自分ではないか。そういう自覚が生まれた時、結局自分も「地獄行き決定」なんじゃないかな、と思うしかない。
何度も言うようだけど、仏教で「悪」あるいは「罪」(この二つは仏教では同じもの)と考えられているものは「執着」であり、その「執着」がどこからきているのかといえば、それは「無明(無知)」であるとしている。
仏教の教えに照らし合わせれば「罪だらけの自分」であるのに、日々の生活に追われてその教えを聞こうともせず、だからそれがわからない。そのことが、「善人は自力で仏になろうとする人を指し、悪人はそれができない人を指している」という解釈になっている。
親鸞聖人という人は、本当に自分に厳しい人で、偏屈なくらい自分に正直だ。だから、阿弥陀仏が「極楽浄土へ行かせてあげるよ」と言っても全然行きたいと思わない、などと言ったりする。だけど、行きたいとも思っていないのに、気がつくと「南無阿弥陀仏」と言っている、と。(「南無阿弥陀仏」は平たく言うと、「阿弥陀さまにお任せします」という意味の言葉。)
何でそんなことを言ったのかと考えると、それはお経の中にでてくるからかもしれないし、仏に対する礼儀として言ったのかもしれないし、単なる習慣かもしれない。
だれどそもそも、極楽に行きたい気持ちもないのにそんなことを言うのは変だ。だから、これは自分の口が言ったことではあるけれど、阿弥陀仏の働きがあって勝手に口が動いたととらえたほうがいい、と親鸞聖人は考えた。
心にもないことを言ってしまったのだから、これは自分の意思ではない。だとすれば、これはむしろ阿弥陀仏の力が届いて、「ちゃんといますよ」「見ていますよ」「見放したりしませんよ」と伝える代わりに「南無阿弥陀仏」という言葉になってでてきたのに違いない、と考えた人なのだ。
徹底して自分の力を信じなかった人、なのだと思う。
ところで「阿弥陀仏に救われる」と書いたけれども、救われるとどうなるのかというと、死んだ後に極楽浄土へ行くことが決定になる。つまり、六道を輪廻することがなくなる。
そして、その死んだ人は極楽浄土の蓮の花の中に生まれて、その蓮の花が開いた時に「仏に成りたい」と気持ちが起きて、いずれは「仏」という存在になるとされている。
つまり、極楽浄土に行くのは決定だけど、行った後、誰もがすぐ「仏」になるわけではない。そこから先は生前の行いによって決まるとされていて、最も良い人は、蓮の花の中に生まれたらすぐにそれが開いて、たちまち仏の仲間入りになる。だけど罪深い人は、蓮の花の中で長い時間を過ごさなくちゃならない。
『観無量寿経』には、最悪レベルに罪深い人は「蓮の花に包まれて十二大劫が過ぎると、はじめてその花が開く」と書いてある。
「大劫」がどんな時間かは、いろいろな言い方があるのではっきりと示すのは難しいけれど、一説によると「世界ができて、しばらく続き、やがて滅んで壊れてしまい、何もない状態になる」までが「一大劫」らしい。
だから、宇宙でいうと、ガス状の物質が集まって星が生まれ、盛んに輝いた後、やがて爆発してなくなり、またそのガスが集まって……みたいなのを十二回繰り返す間、という感じか。
とにかくとてつもなく長い時間だ。そういう時間を、極楽の蓮の花の中で過ごすわけだ。そこは暑くもないし寒くもない。飢えることも喉が渇くこともない。綺麗な音楽は聞こえてくるし、しなきゃいけないことも何にもない。好きなようにしてていい。
だけどこれ、「非常に快適な牢獄」みたいだと私は思う。だとすれば、やっぱり赦されてなんかいないのじゃないだろうか。
でも、裁かれてるわけでもないし、罪の償いをしているわけでもない。何故かというと、仏の裁量でそうなっているわけではないから。
その蓮の花の中にいる人が、「どうしてこんなことになったのか、仏さまの話を聴いて教えてもらいたいなあ」って心の底から思った時に、花がパカっと開いて外に出ることができる。そういう心が起きない内は開かない。つまり自分次第。
そして花が開いたら、仏がすぐにやって来て、世界の真実の姿と今まで(前世だけじゃなくて、もっとずっと前からの世の全て)の罪を除き去る教えを説き、「ああ、私も仏になりたい」と思うようになる、らしい。そこからようやく本格的に「仏に成る」ってことが始まるわけだ。
阿弥陀仏に寿命はないので、「たとえ宇宙が滅びたとしても大丈夫ですよ。あなたを絶対に見捨てたりしませんから。気が向いたら声をかけてくださいね。気長に行きましょう」という感じなんだろう。
こんな言い方は多分に語弊がありそうだけど、うっかり「南無阿弥陀仏」とか言ってしまったばっかりに、「今、言いましたね。私の声が聞こえたんですね。わかりました。死後は必ず極楽へ連れて行きます」とかになっちゃって、行ったら最後絶対に離してもらえなくて、「仏に成る」以外の道が何一つ無くなってしまう、というのが浄土真宗。
「もう一度この世に戻ってきて、面白おかしく過ごしたい」という人には向いてない。
だけど、「もうこんなつらい思いはしたくない。人の世界は苦しいことばかり。かと言って、天に行くほどの徳もなし。地獄に行くのも嫌だよなあ」という人は、とりあえずこの世は耐え忍んで生きていって、阿弥陀仏に来世の希望を託そう、と思うかもしれない。
ちなみに私は、極楽が良いところだとは思えないし、仏になったらどうなるのかも全然わからないけれど、またこの人の世界に戻ってくるのだけはごめんだし、いろいろあって多分現時点で地獄行き決定しちゃってると思うので、まあ阿弥陀さまを頼りにしちゃおうかなあ、くらいの感じ。
不真面目だ、とめちゃくちゃ怒られそうだけど、極々素直に言うとそうなる。
あと、他の神さま仏さまだと別の場所に連れて行かれそうなんで、「できれば極楽でお願い」したい。知り合いがいるかもしれないし。
おっと、忘れてた。極楽に行った人は(未だ蓮の花の中にいる人を除いて)皆、仏になっちゃってるので、身内だからどうこうというのは無い。
親だから、兄弟だから、友達だから、知り合いだから…..という執着は離れてしまっている。だから、身内も他人も全部一緒にしか見えないはず。男も女もないし、老いも若いもない。あるのは、仏かそうでないかだけ。
「冥土の土産」なんて言うけど、この世のことをいろいろ話されても、それは煩悩まみれの言葉なんで、むしろ困ってしまうらしい。雑音みたいに聞こえるんじゃないだろうか。嫌な顔はしないと思うけど、可哀想にと思われるかもしれない。
第一、こちら側から見ても、全員仏だから多分皆似たような顔をしていて、誰が誰だか見分けがつかないんじゃないかな、と思う。後光が眩しくてよく見えないかもね。
『自分とか、ないから。 教養としての東洋哲学』
著者:しんめいP 監修:鎌田東二 発行:サンクチュアリ出版 2024年