
私とわたもりの乖離(文末投げ銭100円)
有料ラインは文末後にあります。
全文を読んで、この文章にはお金を払っても良いと思った方はお支払いください。
わたもりは元々「私の中の森」という文章群をブログに掲載する時に、FC2ブログに登録するためのユーザー名だった。
他にも色々名前を考えて登録しようとしたら、はじかれた気がする。
それで、面倒くさくなって「わたしのなかのもり」だから、初めと終わりをとって「わたもり」にした。
思い出すと、当時考えたユーザー名は「厨二病か!」と言いたくなるような名前だった気がするから、運命の神様ありがとう。
でも、私がその名前で呼ばれるようになるとは、全く思っていなかった。
そもそも、そんな文章なんて、読む人がいると思っていなかった。
よくある「読者のほとんどいなさそうなブログ」の一つになるだろうと。
それでも、「この文章がたった一人の誰かの役に立つ時が来るかもしれない」と思って掲載していた。
うん、今でも、この自分の中に入り込んでいくスタイルの、文章による自分との対話はお勧めしたい。
文章を書くのが好きな人なら。
急転直下で離婚し、カウンセリング業を始め、流輝先生と久恵先生という仲間が増えて、「店主」となってから、思えば「私」と「わたもり」は乖離していったのかもしれない。
現実の私はダメダメな人なのに、何故か私の文章を読んだ人から立派な人だと思われたり、褒められたり。
私は全く立派な人でも、ちゃんとした人でもないのに。
開店してから、まる9年が経つが、なんか違うと思ったのは、いつくらいだったろう?
ブログ文章は次々浮かぶ。
Web雑誌「Trinity」にスピリチュアルな記事を書き、「私の中の森」はスピリチュアル以外の事を中心に書くようになった。
そのうちに、私がスピリチュアルな力のある人だって知らない「私の中の森」の読者やクライアント様もいて、びっくりしたっけ。
そう、その時かもしれない。
私と、わたもりが乖離していっていると、無意識の中で気づいたのは。
(無意識の中で、というのは、言語化出来ておらず、漠然と感じていたという事)
店主としても、店の未来を色々考えだした。
その頃にはもう、人生の98%くらい、「わたもり」として生きていて、「私」がほとんどなくなっていた気がする。
子ども達にも母親としてふるまうのが難しくなった。
…いや、それは元々か。
学校の先生のようにしか接してなかったと思う。
だから、尚更、「母」の部分が無くなっていく。
そりゃ、子ども達に嫌われるよね。
ダメダメで、立派じゃなくて、迷って、悩んで、苦しんで。
カウンセラーとしての期間が長くなるにつれ、そういう自分、見せちゃダメって、いつの間にか思っていたかもしれない。
「私も同じです」「ダメダメです」とか、どっか、嘘くさくなっていたのではないだろうか。
「ダメな人」なのは本当だけど、店主として、そう見せないように、しっかり立っていなきゃって。
プライベートでも、夫の前でもそうだったのだと思う。
だから、夫は私を甘やかして、色々やってくれるようになったのかな。
ダメな部分も含めてダメじゃないよって教えるために。
騙しだまし来ているうちに、「私」がいなくなっていた気がする。
でも、あふれ出る「私」は「何でもメモして書くノート」や、Gmailの下書きトレイとかに溜まっていっていた。
酸素が無くなって、苦しくて、水から顔を出すように書いた文章。
他の誰かが読む価値があるかどうかは判らない。
だから、これ(noteブログ)は、嗜好品のようなものなので、「物好きだとは思うけど、どうしても読みたいなら読んで」くらいのスタンスで掲載している。
(ここまで分析的な事を色々グダグダ書いていたが、所用があり、少し時間が空く。ここまでの文章、あ~!つまんねー!)
何の事は無い。
仕事ばかりしていて、私は「私」で無くなった。
だから、「私」を取り戻すために、私の中へ再び旅に出ようと思う。
あちこちに書き散らすとふり返りにくい。
だからnoteにまとめておく。
でも、これはそんな、人様にお見せする程のものとも、私は思えない。
読むとしたら、よっぽどのもの好きだろう。
ブログ「私の中の森」等に書いているのは「困っている方への有益な情報がコンセプト」
だから、被災地の炊き出しのような、命を繋ぐものだから無料。
noteのは読んでも読まなくても死にはしないから、嗜好品。
だから、有料にする。
タイトルは「わたもりの頭の中」
理由は、学生時代から友人達に「あんたの頭の中をみてみたい」とよく言われていたから。
うん、漠然としていたイメージが言葉になった。
これで行こう。
やっと53歳にして、「私の頭の中、他の人と違うんだ」と自覚した。
どうやら私は、「○○ってどうしてなんだろう?」とかばかり考えている人のようです。
(そして「そんなことどうでもいいでしょ」と夫・流輝先生によく言われる。)
読む人は、かなりのもの好き。
役に立つかどうかなんてわからない。
私を振り返るためのツールとして、自分の見た夢の解析や、カードリーディング結果なんかも載せる。
全部、ナマの私だから。
文章群「私の中の森」を書いた時の最後に、「森の外へ旅に出る」的な事を書いたけれど、10年くらい?かかって、やっと旅に出られるのかな?
それとも再び、膨れ上がった森の中に行くのかな?
このnoteで、私は私を取り戻せるかな?
どうなるか判らない。
頓挫するかもしれない。
でも、とにかく、ずっと、今のままの場所にはいられない。
「心が旅したがっているんだ」
何処で聞いたんだっけ?
まあいいや。
旅に出るよ。
カテゴリ「迷う過程」)
(2023年5月28日 記述)
ここから先は
¥ 100
お読みいただいただけでもありがたいのに、サポートしていただくのは恐縮ですが、あなたの心に深く染み入る記事を書くことで、ご恩をお返しできたらと思っています。