「ネガティブ・ケイパビリティ」~わからないことはわからないまま、自分の言葉を探し続ける~
久しぶりに、かなり骨太な社会哲学的な本を読んだ。3人の若手の哲学者同士の対談形式で進むのだが、哲学書から漫画・アニメといったサブカルチャーなど広範囲な題材を引きながら、現代社会における一つのテーマとの向き合い方について考える、非常に読み応えのある本だった。
テーマは「ネガティブ・ケイパビリティ」これは、不確実な状況の中で、即座に答えを得ようとせず、わからないままでも考え続けられる力、と言えると思う。「ネガティブ」とだけあって、やや消極的な姿勢に聞こえるかもしれない。とりわけ公共的なテーマ(政治問題、人権問題、環境問題、etc…)に対峙したとき、「まだよくわからないけど、これから考えていく」といえることかもしれない。
この「ネガティブ・ケイパビリティ」を持つことが、今の世の中には求められているのではないか、というのが本書の主題である。何故「ネガティブ・ケイパビリティ」の必要性が高まっていると言えるのだろう。個人的には2つの風潮が関係していると考えている。
一つは月並みだが、理解するには高度な知識と理解力が求められるほど世の中が複雑化してしまったことだ。同時にどうしてもわからないままでいられない、明快な答えを求める人が多いことだ。そうした風潮の表れとして「陰謀論」や「似非科学」の流行があり、他方に自信満々にわかりやすく解説してくれる権威的な存在の賛美がある。「陰謀論」には、「自分はこの不透明な世界を真に理解できている」「自分が善の側にいる」というポジショニングがしやすいという危険な魅力がある。また権威を探すことも、この問題に関してはこれを言っておけばいい的な、テンプレ化された言説にのっかっておけば、効率的に問題を理解できると思いこまされる。
もう一つが「ポジショニング」の流行である。SNSによって自分の境遇、パーソナリティ、マイノリティ属性を公の場でオープンにすることが非常に容易になった結果、「自分はこんな人間なんだ」と饒舌に発信することで賛同を集めることができるようになった。本書ではこのような状況を「アテンション・エコノミー」それが激化するとどのような境遇や属性がより多くの注目を集めるのか、という定量的な競争が、どちらが優先的に助けられるべきかという議論に発展しかねない状況だ。寄り添いをうむことではなく別の属性との敵味方の構図を生んでしまう。受取り手側としては、発信者に賛同をすることが自分の意見や党派性を示すことにつながると同時に、自分はその属性やパーソナリティの方を理解できている、という気持ちにさせてくれる危うさがある。
いずれの流れでも重要なのは、人や出来事を単純なものとしてとらえず、複雑なものを複雑なままで、まずはじっくり観察してみることだと思う。「陰謀論」に関しては、本来複雑なはずのものを単一の論理で説明できてしまうとする点に問題がある。また「陰謀論」を信じる側も拒否する側も、実はどちらも「あいつらは愚かだから対話しても無駄だ」とパーソナリティを単純化してしまい、建設的な対話が進まない。
また「アテンション・エコノミー」に乗っかり、発信に賛同することは、本来その人や属性のことを理解したことにはならないはずだ。手ごろな理解にとどまるのではなく、「私は理解できていないかもしれない」と考え観察し続けることが、本来の寄り添いの姿ではないか。発言に安易に乗っかり賛同することは寄り添いではなく、アテンションによる勢力争いを助長することになるのではないか。
複雑化し不透明な世の中にあって、わかりやすい結論に飛びつかないこと、自分とは違う他人に簡単に賛同もしないことが、「ネガティブ・ケイパビリティ」の重要性である。
こうした慎重な姿勢は、ともすると、何も言わない、何も考えない姿勢に見えるかもしれないが、そうではない。むしろ冒頭で述べたように、わからない中で考え続けるときにこそ「ネガティブ・ケイパビリティ」が発揮される。まずは何も言わず観察し続け、相手が何を大事にしていて何を思い、何を言っているのかを聞くこと。そしておぼつかない足取りで時に失敗をしながらも考え続けた末に、ある物事を語るための自分自身の言葉を見つけようとすること。そして見つけた言葉をもって対話しながら、こんなこともいえるのではないか、実はこっちのほうが自分にははまるのではないかと、自分の観察と改革を続けることである。
一人ひとりがその姿勢を持つことが、複雑化し何が正しいのかがわからなくなった世界で、激化する二項対立や陰謀論、私的領域まで入り込む政治的キャンペーンに絡めとられず、建設的で前向きな議論で社会を動かしていくために必要なことなのだ。
私がこの本にひかれたのは、自分も過去に、あらゆる物事に対して、何かしら意見を持ちポジションをとらなければならない、という空気のようなものに違和感を感じたことがあったからだ。ちょうど東日本大震災以降に、SNS上であらゆる人が自分の気持ちや意見、政治的なポジションを公にし始めたころだったかもしれない。それは「わからないので何も言えない」ということを許さない、脅迫的で息苦しい空気だった。
世の中の出来事は本来とても複雑で様々な要素が絡み合っていて、自分がキャッチできる情報だけが全てではないはずだ。その前提に立てば昨日の今日まで素人だった人間が安易に何かを批判したり、クイックにポジショニングすることなど到底できないはずだと思っている。まして仕事、育児、介護など私的領域で手いっぱいであればあるほど、世の中の事物にまで目を向けることなどとてもじゃないができないし、まして自分自身と直接かかわりない領域まで意見を持つことなどほぼ不可能だ(このあたりのことは、W.リップマンが『幻の公衆』の中でも述べていたと思う)。だから、そもそも意見を持たなければいけないという空気自体が、かなり無理があるように思われたのだ。
そうは言いつつ、何も考えなくてもいいというわけにもいかない。我々は民主主義の市民として、すべてに精通しなくても、自分と関わりのある領域に対しては、どうしても何かしら選択をする必要があるのはやむを得ないと思う。そんな時、「自分の言葉で語る」ための「ネガティブ・ケイパビリティ」が非常に重要なのではないかと思う。
古くは「ワンフレーズ政治」として、昨今では「陰謀論」「論破」など、勧善懲悪的な、シンプルな構図が好まれる世の中ではあるが、そんな中でこそムーブメントから一歩引いて、たどたどしい足取りで自分の言葉を探す営みを大事にしたいと思う。
思いのまま書いたので、駄文失礼した。