芥川龍之介「蜃気楼」のこと 〜Recycle articles〜

中学生のころだったか、高校生のころだったか忘れたけれど、国語の教科書の文学史のページを読んでいたら、芥川龍之介の後期作品について、否定的とも言えるような評価がされていた。

要するに陰鬱だ、ということだったように思うけれど、人生逆張りという現在の自負を自覚なく生きていた当時、むしろ関心を掻き立てられたことを覚えている。

それでも、芥川龍之介という作家について、まとめて読む機会は現在まで持てていない。

というのも、すでに芥川に対し言及された本は数多く、それらの本を総合すると、すでに芥川に対してある程度のところまでは理解が完成しており、そこを超えて芥川へと自分が献身する理由を見出せないでいるからだ。

とはいえ、全集も文庫版で入手可能なのだから、とにもかくにも取り掛かってみようか。

そんな気持ちになって、今までに読んだことのある短編のうち、私の好きだった「蜃気楼 ─或は「続 海のほとり」─」(以下は副題をつけないこととする)を紹介してみようと思う。

ストーリーとしては、芥川らしき話者が、海辺のほとりをぶらぶら歩き、幻覚や幻聴に不安を感じる、というだけの起伏のない短編だ。なんでこれを面白いと感じるのか。それが問題となる。

理由の一つに、計算され尽くした芥川の短編とは異なり、それこそ前期の芥川が毛嫌いしていた私小説的な心象風景が描かれていることが挙げられると思う。

その上で、見えているはずのものが他の人には見えていなかったとか、聞こえた音を幻聴として処理しようとしたら実は本当に出ていた音だったとか、そうした一連の現実感のあやふやさを「蜃気楼」というワードにパッケージングした作品ではないか、と言ってしまえる。

ただ、芥川への病跡学的アプローチの根拠の一つとして、この作品を解釈しきってしまうことには、躊躇も感じる。

内田百閒が中編「山高帽子」の中で、芥川のドッペルゲンガーへの恐れを描いているが、実際「蜃気楼」でもドッペルゲンガー的不安が描かれている場面がある。

だから、先の解釈に落ちることを全て無視できるとは思わないのだが、それでも自己否定の劇があまりにも露悪に流れすぎたり、自己否定と社会否定の間を極端に揺れ動いたりするような作品群に比べると、「蜃気楼」は肩の力が抜けており、どこか幻想的な彼岸を彷徨い歩いているような気がしてならない。

理由の二つ目として、見られる自分(芥川)を演出することから脱した自由な境地を感じさせるところがあるから、「蜃気楼」を面白いと私は評価したのかも知れない。

いずれにしても、「蜃気楼」は芥川の短編にしてはかなり「緩い」作りになっていると感じていた。

ただ、この「緩さ」を、私はどこかで読んだことがあると思ったのも確かだ。そうだ、やはり百閒の作品にある何かだ。

百閒の短編では、登場人物がとにかく歩いていき、小説内の時間感覚を優に超えて、いつの間にそこに到達したのか、というほどの速度で出来事が切り替わる。この「蜃気楼」はまさに百閒のその歩行感覚を思わせる。

「僕等は蜃気楼を見に出て来たんだよ。君も一しょに行かないか?」
「蜃気楼か?ー」
O君は急に笑い出した。
「どうもこの頃は蜃気楼ばやりだな」
五分ばかりたった後、僕等はもうO君と一しょに砂の深い路を歩いて行った。


この「もう」に、ドキリとする。百閒の短編にあるような、敷居を跨いだ認識なしにそこを軽々超えてしまっている一言に、怖さを感じる。カフカの『城』のように、いつまでもたどり着かない方がはるかに人間的かもしれない。

歩行しているうちにいつしか何かを踏み越えてしまっていて、私たちはその踏み越えたという事実自体を認識できていない。この怖さに芥川はこだわっていたのかもしれない。

すると、この短編、さほどに「緩い」作りでもないのか―

「新時代」を代表するような男女、水葬された死体についていたと思しき札、そして、結末はこう閉じられる。


僕等は気軽にO君に別れ、松風の音の中を歩いて行った。その又松風の音の中には虫の声もかすかにまじっていた。
「おじいさんの金婚式はいつになるんでしょう?」
「おじいさん」と云うのは父のことだった。
「いつになるかな。……東京からバタはとどいているね?」
「バタはまだ。とどいているのはソウセエジだけ」
そのうちに僕等は門の前へ──半開きになった門の前へ来ていた。


もし「敷居感覚」(メニングハウス)に関する話だとすると、この結語はよくできている。

緩い話だと思った私は、ここで、芥川の構築的意志を再認して、つぶやいた。

いつまでもカッコつけなくてもいいんだぜ、と。

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