中山義秀「テニヤンの末日」
おそらく、学生時代に新古書店のようなところで購入した本だろう。私の学生時代は90年代の後半にあたるが、まだいわゆる現代思想だとか文学が力を持っていると識者たちに思われている時代だった。そのころに、とにかく古今東西の名作と呼ばれるものを収集し、読んでおかなければならないという熱病に取りつかれた。その時期に買った一冊だと思われる。
それにしても、「750」表記の上に糊の跡があるということは、値札が貼られていたあとだろう。いくらだったのか。さすがに、あのころ750円出してこの一冊を買うほどの金銭的余裕がなかったと思い出されるので、きっと200円くらいで買ったのではなかろうか。200円ならジュースでも2本買うのを当時は我慢すればよかったのだから。私がバイトの月収9万円の時代である。
今はもう、そのころから30年余が経とうとしており、そのころの情熱などすっかり失って、そろそろ蔵書も売ってしまおうかなどと思い悩んでいる。当時はなぜ皆書籍のような面白いものを加齢とともに手放してしまうのだろうと不思議に思っていたが、なるほど老いとはすさまじいもので、老眼が始まると小さな文字を追うだけで体力が奪われる。そうか、これが書籍離れの生理的理由か…などと言い訳をしながら、本を読まぬ生活に慣れてしまった自分の禿頭を叩いてみる。
さて、そんな折、このNoteなるプラットフォームの中でいくつかの読書感想文を拝見させてもらった。若い人のものが多い。若い人の読書離れが叫ばれる中で、読む人は読んでいる。なんともたのもしいことだ。中年も、いつまでも拗ねているわけにもいくまい、と、老骨ならぬ老眼に鞭打って、自分も読書感想文をしたためようと決意した次第である。酒ばかり飲んでいるように見えているのだとするなら、それは本意ではない。
中山義秀は、1900年生まれ。明治の人ではある。戦中には、私と同じ40代で、戦争に行ったのか否か知らん。今回読んでみた短編である「テニヤンの末日」は、そんな南方戦線の末期を描いた一作だといえる。取材によって、とあるので中山は従軍する年齢ではなかったのかもしれない。
あらすじ
サイパン南部の小島であるテニヤン島に、若い軍医である浜野が赴任した。そこにはあとから大学時代の友人岡崎も来るはずだった。浜野は、赴任早々空襲を受け、なんとか生き延びる。そこで岡崎と再会。旧交を温めあう。
島の兵士たちに流行り病がまん延し、その病の解明に岡崎はのめりこむ。しかし、上官に止められてしまい失意のうちに病気になる。岡崎から託された病の解明について浜野はやり遂げ、小さな学会報告のようなものを行い、浜野の上官からは褒められる。
そんななか岡崎の病状は悪化。そして、日に日に戦況は悪くなっていく。あるとき岡崎が発作を起こし、それを浜野は助ける。戦況の悪化の中で航空兵たちはどんどん減っていく。
ある日、テニヤン島が軍艦の包囲を受けていることを認識する。砲火にさらされ、浜野と岡崎もちりぢりになって逃げる。そして、退路を断たれ、逃げ惑い、自決する民間人の姿を多数目撃する浜野。司令部も、切り込んで討ち死にしようと目論むも果たせず後退に次ぐ後退。そして、あるとき、岡崎が砲弾によって爆死したことを、彼の部下の報告で知る。
索漠とした気持ちになる浜野。そして島を放浪し、どこかで捕虜になり、テキサスの収容所へと送られ、戦後5年して、日本に帰還する。
感想
戦後5年して、日本に帰国したところから、記憶のフラッシュバックが起こる「テニヤンの末日」だが、やはり、あらすじでのべた「そして、退路を断たれ、逃げ惑い、自決する民間人の姿を多数目撃する浜野」の部分が、生々しくてよい。戦争の悲惨というか、誰に文句を言ったらいいのかわからない無情な運命が、人を襲う。
このような阿鼻叫喚を目にしながら、浜野は捕虜になり、戦後のうのうと帰って来たのか…と思うものの、南方戦線で捕虜になるまでを描いた作品に大岡昇平の『野火』『俘虜記』などがある。それらに比べて「テニヤンの末日」は「捕虜」になるまでがスカッと抜けているので、その捕虜になって戻ってくる過程をもっと描いてほしいという気持ちが起こった。岡崎との感傷的な別れは、なるほど老骨にもまた染み入るものである。私も50を目前にして、若くして死んでしまった友人の一人二人は、残念ながらいるようになった。
とはいえ、「テニヤンの末日」の主題はそこではないと言われれば、そうなのかもしれない。戦争の悲惨を記録しようとしたものなのでもあろうし、友情の郷愁を書こうとしたものなのかもしれない。「帰りたいな」「ああ、帰りたい」と浜野と岡崎が言い合う場面があるが、私も「あの頃に戻りたい」と思うことはしばしばある。もしかしたら、中年を超えて初老の域に達したときに起こるこの「ふるさと」願望をアレゴリカルに描いたものなのかもしれない。
というわけで、若いころ買ったはいいがなんとなく読み始めては、読み切れなかった「テニヤンの末日」を深夜に読み始めて、意外に読みきれた。これはやはり浜野と岡崎の友情があったころに私も戻りたいという「郷愁」が、読みながら発動したからではないのか。「郷愁」が生ずる余裕のない20代、30代は、そういう意味では対象外なのかもしれない。南方戦線に興味深々の人以外は。
この「テニヤンの末日」の中に出てくる、絶対出撃せずじっと本を読みふけっている航空隊の長のことは、どこか好きである。人間、極限状態の中で本当の人格を表すものだからである。と、昨今の日本の社会情勢は「極限状態」か。確かに、人品の尊卑が、こういう情勢になると表れがちである。くわばら、くわばら。