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『旅猫リポート』、原作と映画を比べてみた

#ネタバレ

昔の記事です。

映画と小説の違いを考えるシリーズの一つです。

映画から観たのですが、動物と子どもが中心の内容は、必ず泣いてしまいます。

でも、観終ったあとに得た感覚は、『フランダースの犬』のそれと似ていて…。

大体にして、怪我した猫を助けて飼いはじめちゃう程の猫好きが、飼い猫を誰かに託すために旅に出かけるって、もう、結末自体はある程度推測ついちゃうものですよね。

本の帯にもう、

ぼくは、最後まで、サトルの猫でいる。

って書いてあるじゃあ、ありませんか。

それでも、かなり無防備な状態で、いつものイオンシネマに出かけました。

本当は『銃』を観に行くはずだったのです。

でも、『銃』はテーマがテーマだけに、夜上映。

朝やってない!と、気付いたのは、到着してからでした。

到着したら、意外に混んでいて、あれ?と思ったのですが、そうかファンタスティック・ビースト!と気づいたのは、映画を観終った後でした。

そんな状況だったので、まあ、猫と飼い主の心温まるヒューマン・コメディ・ドラマのつもりで、観はじめました。

しかし…

嗚咽するのは、さすがに恥ずかしいものです。

なので、声をしぼりつつ、涙が流れるのにまかせていたら、終わったあと、ぜい肉のついたあごの下がグッショリと濡れていました。それを手で拭ったら、レモン一個分くらいの俺エキスがとれたと思います。

ああ、汚い。

そこそこ泣いた水滴を手で拭ったので、さすがにその手で本を購入するのはどうかと思って、一日おいて、時間差で、いつもの駅前百貨店に入っている本屋にて、『旅猫リポート』購入しました。

ああ、有川浩作品だったのですね。そのときやっと、何かを了解しました。

あらすじ

主人公の悟(サトル)は、昔、自分が飼っていてやむなく手放した飼い猫ハチに似た野良猫と仲良くなります。

しかし、あるとき、その野良猫は事故にあってしまいます。

助けに来たサトル。すぐに病院に行き、手当をし、その後飼い猫となった野良は、「ナナ」と名付けられました。

けれども、サトルには事情ができて、ナナを手放す決意をします。

ナナを預かってくれそうな旧友たちに会いにいく旅に、悟はナナと出発するのです。

この「事情」は、だいたい、予測できるものです。

1997年のドイツ映画、『Knock'in on heaven's door』も思い出されます。

この種の旅に、私が弱かったことも思い出されました。

小学校の時の友人「コースケ」、中学校の時の友人「ヨシミネ」、高校時代の友人「スギとチカコ」。

そして、育ての親?の「母の義妹・法子」。

サトルとナナは、自分の生きた軌跡を確認するように、一人一人と会って、思春期の思い出や、言い残したくないことを伝えて回ります。

これ、サトルの一人称だったら、もっと湿っぽくなりますよね。

語り手をナナにして、かつ、小説だとオスだってところに工夫があって。

映画だと、そのナレーションの効果は、ちょっと薄かったかもしれない。

声が高畑充希ですし。予告で、「こんな夜更けにバナナかよ」の長いヴァージョンも観ていたし。それでも、私は泣いてしまいました。

預けようとして、結局、預けられず、サトルとナナは、旅をしながら、育ての親である母方の叔母の「ノリコ」のところに戻ってきます。

ナナは元野良猫で、世慣れたオスです。

実は、サトルに対しては、保護者のような愛情を抱きつつ接しています。サトルは猫の内面がわからないから、庇護者として語りますが、ナナはナナでそんなサトルを気遣って語ります。

そこが猫の一人称の、活きるところ。

サトルが、友人たちと会い、話すことを聞きながら、ナナは黙って色々な思いを受けとめる、そんな役どころを担っています。

これは僕らの最後の旅だ。
最後の旅で、たくさん素敵なものを見よう。どれだけ素敵なものが見られるかに僕たちの行く末を賭けよう。─そう誓って走り出した昨日。
僕たちはたくさん素敵なものを見た。
こんなにたくさん素敵なものを見たのだから、最後の最後に、二重の虹の根元まで見たのだから、僕たちの行く末はきっと祝福されているに違いない。

断念せざるを得ないもの

『旅猫レポート』の脚本、難しかったんじゃないかなあ、と思いました。

原作では、7本の「Report」がそれぞれの章として立っております。

映画版では、その中の、中学校の時の友人である「ヨシミネ」編は大幅に削除されております。

かなり大胆に、電話で「ヨシミネ」が断るカットを経て、スギとチカコ編に移っていきました。

一応「ヨシミネ」役は登場します。

サトルが亡くなった後、叔母のノリコの家で、それぞれの友達同士が初めて知り合い(転校が多かったからサトルの友人達ちはお互いには知り合いではない)、語り合うシーンがありまして、そこでカメラが「ヨシミネ」に向けられておりました(ネタバレですね)。

映画から観た私は、この「ヨシミネ」の扱いにちょっとした違和感を感じておりましたが、原作を読むと、サトルと「ヨシミネ」にも、かなり大きなエピソードが振り分けられていたことがわかりました。

もうネタバレ宣言していますので、書きますと、サトルは小学校の六年の修学旅行の時に「両親」を交通事故で一挙に亡くしています。

「ヨシミネ」も、両親が仕事で忙しく、祖母の家に預けられ、そのまま両親は離婚して「ヨシミネ」を引き取ることを拒否したため、祖母の家にそのまま引き取られてしまいます。

中学校時代のエピソードは、「愛する両親を突如として失った」悟と「両親から捨てられたが自分を愛してくれる祖母の所に住む」ヨシミネの間の気持ちの交流です。

ある種の「不幸」を背負った2人が、その「不幸」を比べることなく、語らいながら自分の運命を咀嚼していく場面が感動的でありました。

このエピソードは、抜いてはいけなかったのではないかなあ、と最初考えました。

というのも、『旅猫リポート』は、自分を裏切らない他者の存在が自分の尊厳の支えになる、というテーマを持っているからです。

もちろん「裏切らない」というのは主観的な見え方でありまして、現実には裏切っても裏切られていないと思えば、裏切っていないことになります。

だから、絶対的な信頼を寄せる他者といっても大きくは外れてはいないと思います。一般的には信仰と似た形になりますが、「猫」や「祖母」や「母の叔母」といった身近な他者にこのような「信頼」を置ける世間が大切だ、という理念は、有川浩作品の中で、複数展開されているように思います。

だから、外すべきではなかった、と思うのですが、でも、他のエピソードと比べて、確かに落とすのはここしかないかもしれない、と思い直したことも事実です。

脚本に有川浩自身が入って、そこに手を入れる決断をしたのではないでしょうか(事実はどうだかわからないけれども)。

そのため、実はサトルの両親は本当の両親ではなかった、という原作ではどんでん返しにあたる事実の提示も、映画では比較的早い段階、すなわち「コースケ」編の中で開示されてしまいました。

この部分を知って「スギ&チカコ」編を観るのと、知らずして観るのでは、ちょっとニュアンスが違ってくると思いますので、苦渋の決断と言えるところではないでしょうか。

映画→原作の順で観ると


原作を読んでから映画を観ると、「ヨシミネ」編の削除、ハチの引き取り手としてのノリコの遠い親戚のエピソード、サトルの育ての母とその妹のノリコの関係性などが、かなりさらりと削除されていることに気づきます。

だから、こんなに良い子でカッコいいのになんてかわいそうな福士蒼汰!というニュアンスが強まっている、ことは否めません。いい子で、かっこいい、福士蒼汰が若くして亡くなる、という喪失感だけで、映画の見どころが成立してしまうからです。

それとは逆に、映画を観て、原作を読むと、映画は映画で、自立した作品として観ることができたなと思いながらも、それぞれのキャラクターには、こんな背景と思いがあったのだな、と立体的に、段階的に理解することができました。

意地悪な言い方をすると、福士蒼汰を見にきて、原作への興味が開かれる、ことが念頭に置かれていたのかもしれません。

原作では、サトルの中の斜に構えた部分も表現されていたりします。

けれども、サトルはあまり自分を多く語らぬまま、ナナのレポートと、友人たちの一人称などによって、彼が色々な人に認められて過ごしてきたことが伝わってきます。

ビニール袋に入れて捨てられて、その事件を担当した検事の姉夫婦に引き取られて、でも、その姉夫婦は交通事故で亡くなって、各地を転々とする生活の中で、様々な友だちと出会って、さあこれからという30歳で悪性腫瘍のために亡くなってしまうサトルの人生、果たして「幸せ」だったかとも問えるわけです。

俺、叔母さんが教えてくれるまで、自分と両親の血が繋がってないなんて、全然、まったく、露ほども思ったことがなかったんだよ。それくらいお父さんとお母さんは俺を本当の子供にしてくれてたんだ。生みに親に要らないって捨てられたのに、よそのお父さんとお母さんにそんなに大事にしてもらえるなんて、こんなにすごいことってそうそうないよね

江戸期、明治期には、養子縁組は結構普通のこととしてりました。

それによって、育てられる親と育てられない親の子同士のそこそこ適切なマッチングもあったように思うわけですが、血だ何だと愛情の自然性がことさらに強調される昨今、血が繋がっているのに不仕合せという不幸が目に余るような気も、個人的にはしないわけでありません。

愛情や忠義というものが、「血」といった自然によって、自ずから実現されるものならば、忠犬ハチ公もピカチュウもいないわけです。

と、いうような雑感を含めて、映画から原作にさかのぼっていくと、より「幸せ」とは何なのかを深く考えさせられる経験が得られるはずです。

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