夏目漱石『坊っちゃん』余滴
昨日、一昨日と、何も書けずに終わった。
一応、プロスペル・メリメ「カルル十一世の幻視」を読み、スウェーデンに滞在したときのことを絡めようかと思ったものの、何も思い出せなくて挫折した。
想起や思考がうまく展開しない理由は、ちょっと神経質に思考しないと完成しない仕事をやっていることと、「認知症日記」の方で亡くなりそうになっている義父の人生をまとめるという作業の中で、廃屋になっている倉庫から救出したいくつかの資料を読んでいるからでもある。
どちらも、面白くもあれば、どうでもよくもあり、ここに書くほどのものでもない。
ただ、その資料を読む中で、義父の出身校の記念誌のようなものがある。私自身も、こういったいわゆるナンバースクールと言われるところの落ちこぼれであったりして、この種の記念誌的なものを配布されたような記憶もあるのだが、読みもせずに捨てたような気がする。だから、今になって、こうしたものを大真面目に読む、というのは皮肉なことに感じる。
さて、その寄稿している方に、ずいぶんとお年を召している方があり、その方が夏目漱石の『坊っちゃん』の中に清が越後の「笹飴」を所望しているくだりを紹介している。そのくだりとは、これだ。
坊っちゃんの就職が決まって、赴任するということを清に報告しにいくと、清は風邪を引いて寝ていた。
本当に、読み飛ばしてしまう一節だが、記念誌に寄稿する爺さんによると、とある人に呼ばれて、「明治四十四年六月十九」に高田中学校で講演をしたそうな。漱石の日記は読んだことがないが、
とあるようだ。漱石は「何も言うことなくして困る」ということだったらしいが、生徒の方も冒頭に漱石から「面白く聴けると思ったら見当違いだよ」とあったらしいが、実際「面白くない」という感想が多かったようだ。
ただ、その後漱石は直江津に行き、「わくら楼」というところで温泉かなんかに入って、上機嫌だったらしい。
そんな漱石に、その後も彼を呼んだ地元の医師から名産品を贈っており、その中に「笹飴」が含まれていたそうである。
と、送ってくれた医師への返書に書かれていたようだ。
この笹飴。高橋孫左衛門商店という、シャッター街になった高田の街の中で唯一気をはいている伝統的な商店である。
実家の割と近所にあるので、帰省の際にはよく通過するが、実は笹飴は買ったことがない。
砂糖を使わず、もち米と麦芽だけでつくった水あめがあり、それを笹の葉に、「笹ずし」みたいに平たくおいてつつみ、噛まずに最後まで舐めて、香りを楽しむというお菓子である。
ちなみに、その水あめは「粟飴」というが、実際には「粟」は使っておらず、ある代に、「粟」の代わりに「もち米」を使い始めたという。
実際に古式の製法でつくったものは「古代飴」という名の限定商品で売られているので、無いときもある。
以前どこかに書いたかもしれないが、私も思春期に厳格な自然食形態を強いられたことがあって、精白糖を禁じられた。そのためか、今でも「精白糖」を食べることには、ちょっとした疚しさを感じる。なので、「精白糖」を使っていない、これらの飴は、当時の私でも食べられそうで、よさそうだ。
いずれにしても、漱石は坊っちゃんに「越後の笹飴なんて聞いた事もない」と言わせているが、『坊っちゃん』刊行(明治38)後の講演(明治44)でありつつも、笹飴の評判は明治天皇が、この高橋孫左衛門商店の「翁飴」を好んだということからも、知っていたのかもしれない。
実際に、この講演は、修善寺の大患(明治43)の折、漱石を診た医師森成麟造が高田の出身であり、そこで「水あめ」を提供したとされるようだが、どうなんだろう。しかも、土井中照氏のブログによれば、漱石はそんなにうまくないと手紙で言っているようだし。
しかし、このときの経験がもとで、高田高校に漱石は講演に来たものと考えられるので、坊っちゃん執筆時に知っていたかどうか。
でも、私はあんまり笹飴、噛むと歯にくっついてどうにもならなくなるので、あんまり食べたことはないです。今度行くから、買ってみようかなあ。
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