見出し画像

人格の完成がなされないと、孤立や不適応につながり、教育は失敗になってしまうのか?

教育基本法第1条に教育の目的は「人格の完成」であると記されています。我々教職員は、この人格の完成を目指して、日々教育に当たっているのです。

最近、ふと思うことがありました。

「じゃあ、人格の完成がなされないと、教育は失敗なのか?」
「そもそも、人格の完成って、どんな姿なのか?」

この記事において、私の意見をまとめたいと思います。

まず、人格の完成がなされないと、どうなってしまうのか、自分なりの考えをまとめてみました。

人格が不十分だということは…
・道を踏み外してしまうのか?
・人を信じられなくなって、人間不信に陥ってしまうのか?
・社会へ出られなくなり、自宅へ引きこもってしまうのか?
・様々なコミュニティから逸脱し、孤独、孤立してしまうのか?

ある研究があります。

アメリカの心理学者ジュリアン・ホルト=ランスタッド(Julianne Holt-Lunstad)らの研究に基づいており、社会的な孤立が健康に及ぼす影響は、1日に15本のタバコを吸うことに匹敵すると結論づけられています。

チャットGPTより引用

しかし
学校教育段階で

人格の完成がうまくいかなかったら…
人格の発達が不十分なままだったら…

社会的に孤立するのでしょうか?
道を踏み外してしまうのでしょうか?

人格は、生涯を通じて変化し続けるものです。そもそも、完璧な人格なんて、存在しません。それに、人それぞれ成長のペースも違います。得意・不得意もあります。

私自身、人格が完成していると思ってはいません。むしろ、人格の未発達や未成熟をアラフォーになってひしひしと感じています💦

今だに、雑談は苦手です…
何か話すべき会話の内容が明確であれば、その要件を尋ねたり、答えたりして会話ができるのですが、何も要件がないのに、自然と雑談で話し始めるのが難しいです…
大人数での会話が苦手です…
何を話せばよいか分からず、話に入っていくタイミングが分からず、黙り込んでしまいます…

人格の完成を目指して成長していく過程で、得意・不得意が見えてきます。それをメタ認知できるようになることが大切なのではないでしょうか。

無知の知という古代ギリシャの哲学者ソクラテスの
有名な言葉があります。

「自分が何も知らないということを知っている」

という意味です。
ソクラテスは、多くの人が自分は物事を
知っていると思い込んでいるが
実は本当の知識を持っていないことに
気づいていないと考えました。

一方で、自分が無知であることを自覚している人こそ
真の知恵に近づくことができると説きました。

この考え方は

「知っているつもりにならず、常に学び続ける姿勢が大切だ」

という教訓として現代でもよく使われます。

人格の完成を目指す過程で自分の得手不得手に気づきその中で

「社会に適応できる力」
「自己理解を深める力」

を育むことが学校教育の役割ではないかと思うのです。

通常学級で学ぶ子供たちは、毎日の授業、クラスメイトとの関わり、委員会活動や係・当番活動、部活動、放課後の友達との関わりを通じて、これらを自然と育まれていくものです。

しかし、それだけでは十分に育むことができない時に、通級指導教室担当が後方支援を行うというイメージが私にはあります。

社会との関わり方を学び、困ったときにどう対処するかを考える場でもあります。

「自分らしく生きるための地図を描くサポートをする場」

が通級指導教室であると捉えれば、前向きにサポートができるような気がしてきます。

みなさんも、人格の完成について、自分なりの考えを持つと、教育の方向性が見えてくるかもしれませんよ。

今日の記事は以上になります。
最後までお読みくださりありがとうございました。

いいなと思ったら応援しよう!