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奸計を廻らす勿れ

何かを目指して何かになることよりも、特に目指してないけどがむしゃらってたら何かになっていた、の方がよっぽど強いと思うのです。


2025年1月20日。
今日は一番大きい収入源の給料日です。嬉しい。


大学一年生の時、教職課程の一環の講義で教授に釘を刺された一言が今でも胸に残っている。


「先生が生徒に影響を与えようと思うな。」


その意味としては、

先生が先生として本質的にすることは、生徒に教科を教えることであって、生徒を啓発したり、必要以上に寄り添ったり、彼らにとって大きな存在であろうとしない方がよい。
彼らにとっては、たくさんいる中の一先生でしかないのだから。

というメッセージだったように思う。


先生が先生として評価される時、人柄は脇に置かれる。もちろん重要な要素ではあるが、指導力の方がよっぽど評価対象である。そこをすっぽかして、外側だけ大きく見せようとしてはいけないということも言っていたような気がする。


教職課程をとる、1mmでも先生を目指す人の動機に多いものは、
「自分が当時憧れていた先生がいて、自分もそういう先生になりたいから」。


自分の影響を与えてくれた、あの優しかった、キラキラしていた先生に、自分もなりたい。
憧れとは盲目的に人を対象に向かわせる。


「仕事」というものへの理解が浅く、そんな夢を見る若干18歳あたりの学生に等しく釘を刺した先生の一言。

皆はこれで目が覚めたりするのだろうか。


人に影響を与えやすいポジションに憧れる人がいる。
承認欲求というか、悪く言えばマウントを取りたい欲求というか。
もれなく昔の私のことである。


多くの人の上に立つ人にそういう下心が強いとよくない。
その組織にとってよくないだけでなく、チームの士気も、アウトプットも、その人自身の評判も荒んでいく。
能力がある人は下心・憧れという動機で欲しいポジションを得られがちかもしれないが、その下心を純粋な動機として見誤ると、全体が残念になる。


昨今の肩書きほしさの大学生を見ると、私の中の厳しめの悪魔がそんなことを思案する。


教職の件は、高倉さんの今朝のnoteに引用されていた記事を読んで思い出しました。

例にもれず、私も通っている道です。
文章も、SNSも。
過去の投稿はできることなら見たくありません。

他者の存在が入ると、途端に表現しにくくなる。自分のスタイルが失われる。
もしくは作った自分が顔を出す。
だいたいそんなものでしょう。
楽しくないので、やめました。

結局うまく言語化できないのですが、書く人が一度は通る「私に興味がある人が見てる前提的表現」と教師を目指す人が通る「影響を与える人への憧れ」の心情がどこか似ているような気がしたのです。

人間とはなかなか自身を客観視できないものですね。


昨日引いたおみくじに、今年は奸計を廻らすなと書いてありました。


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