うれしいという感情は、一千年たった今でも変わらない。枕草子の「うれしきこと」
肌がぴりぴりするような寒さの日、夫と散歩に出かけたら、梅の花が咲いていた。
この寒さを越えたら春かなあなんて思ったら、春はあけぼのとつぶやきたくなった。
「春はあけぼの。やうやうさむくなりゆく山際、少しあかりて紫立ちたる雲の細くたなびきたる。夏は夜。闇もなお。・・・」
と、むかし国語の授業で暗誦したからか、覚えている、途中まで。秋は曖昧、冬はまったく思い出せない。
気になって調べると、秋は夕暮れ、冬はつとめて(早朝)だった。
この凍えるような季節に早朝がいいなんて、清少納言はなんて変わり者なのだろうと思ったら清少納言に興味が湧いてしまった。
清少納言はどの季節に、このはなしを書いたのだろう。きっと冬の朝ではない。
枕草子の中に、うれしきもの、という作品がある。清少納言がうれしいと感じたものをつらつらと書き連ねているもの。
例えばこんなシーンが描かれている。
とても些細なこと。想像以上にささやかな喜びに思わず心を打たれてしまい、その場で何度も読み返してしまった。
この短い一遍「うれしきこと」の中には「病が治ったらうれしい」という話が前半と後半の2回も出てくる。
ああこれはきっと願いだ、と思った。日常の小さなよろこびの中に、清少納言の願いが込められている気がする。
自分の大切な人たちや友人、家族の病気が良くなってくれたら。遠く離れた大事なみんなも健康でいてくれたら。今の自分の一番の願いと、一千年前を生きる清少納言の思いがなんだか重なったような気がした。
私がそんな気がしただけで、清少納言はそんなことこれっぽっちも思っていない可能性大。でもずっと前の時代を生きた人と、人を思う気持ちで共感できたことがうれしいことだった。
うれしいという感情は、一千年たった今でも変わらない。
うれしいだけでなく、さみしい、苦しい、たのしい。生まれる心の機微は変わらないのだなあと思ったら、清少納言にとっても親近感が湧いた。ちょっと会いたくなった。