夕陽が太平洋に沈む時 【第2話】
二人は叶のホテルの部屋に着いた。
叶はドアを開いて麻衣を中へ促す。部屋の奥にはベッドの端が見える。
麻衣は、仕事においては叶を尊敬し信頼している。
とは言え、叶も男である。夜間に男の部屋へ誘われる、ということの意味を麻衣は知り過ぎるほど知っている。南国のリゾートホテルの一部屋で一緒にワインクーラーを飲んで、「また明日」、と帰してくれるであろうか。強引に誘いを振り払って、気まずくなっても困る。明日も撮影があるのだ。
この晩までの麻衣であったら、これほど躊躇することは無かった。その場のなりゆきで知り合ったばかりのスタッフと肌を合わせることは何度かあり、その後も特に後悔をすることはなかった。あたかも何事も起こらなかったかのように、次の日にそのスタッフと一緒に仕事をすることも難なく出来た。
麻衣はそのような行為が特に好きなほうではなかったが、人間関係における潤滑油として、時には避けられないものだいう価値観も植え付けられていた。かと言って、そのような行為が嫌いというわけでもなかった。雰囲気が良ければそれなりに楽しめた。
しかし、今晩は絶対に回避したかった。叶を生理的に受け付けられないというわけではなかったが、それほど心の通じ合っていない人間と肌を合わせることが堪え難く感じられた。
あるいは、これらはすべて麻衣の杞憂であり、夜が更けてきたら「じゃあ、おやすみ」、といって解放してくれるかもしれない。
試行錯誤を繰り返す麻衣の足は、ドアの前に竦んだままである。
「どうしたの麻衣ちゃん、顔色悪いよ」
叶のその一言がきっかけとなった。
「今夜はちょっと飲みすぎちゃって、なんかむかむかするの」
「おい、大丈夫か?明日も撮影なんだからあんまり飲んだら駄目だよ。今度から自粛してくれよ。気分が良くなるまでここで休んで行くかい?」
麻衣は、撮影の前日はアルコール類は一切控えている。しかし、この場合は便宜上、叶の非難を否定しなかった。
「ごめんなさい、ちょっと吐き気がするので部屋に戻っていいですか?」
麻衣はハンカチを口に当てて俯く。
「わかったよ、心配だな。明日の撮影は9時からだよ、大丈夫かい?水を一杯飲むようにするんだよ。何かあったらすぐに連絡してくれよ」
叶はそれほど失望した表情も見せなかったので、麻衣は安心した。
麻衣が部屋を出たあと、叶はドアを閉めた。様子を観られているとは思わなかったが、念のため、麻衣は覚束ない足取りでエレベータまで歩いていった。
エレベータに乗り込んだ麻衣がボタンを押す前に、誰かが地上階のボタンを押してしまったようである。エレベータは、一階下の麻衣の階には止まらずに、一番下まで一気に降下した。
果たしてエレベータのドアが開いたときには、誰も待っていなかった。海からの爽やかな夜風が麻衣の首もとをくすぐる。
麻衣の足はおのずとビーチに向かう。すでに松明の灯かりは消えていたが、プールサイドから照らされているスポットライトが、マウイ島の夜を幻想的に演出している。
麻衣は、先ほど叶と歩いていた砂浜の道を小走りに歩く。その足取りは次第に速まって行く。
あの男と会ってから、すでに小一時間くらいは経っているはずだ。おそらく、彼はもうあの場所には居ない。しかし、せめて確かめてから戻りたい。
「逢いたいの、お願いまだそこに居て」
麻衣は思い切り駆け出した。
彼がもしまだあの場所に居たら、私は一体何をするつもりなの?そんなことはわからない。でも逢いたい、逢わないと一生後悔することになる。
「一生?」
不意に、熱血少年であったという叶の姿が麻衣の脳裏にて想像される。
あらゆることに無感動になっていたと思っていた自分が、今、目的に向かって必死に走っている。
私にこんな熱血な部分がまだ残っていたなんて。
踵の高いパンプスは何度に砂に嵌まってしまい、思うように走れない。それでも、ようやく男の座っていたヤシの木まで辿り付いた。
果して、そこには男の姿は無かった。
あたかも体中が脱力する感覚に陥り、麻衣は砂の上に座り込んだ。湿った砂が、白いカクテルドレスを通して彼女の身体を徐々に冷やし始める。
「やっぱりね。まだ残っているわけがないわね」
麻衣は、湿った砂を一掴みにすると、手指の狭間から少量づつ足元のパンプスの上に落とす。パンプスの中にはすでに砂が入り込んでいた。
彼女はその動作を何回か繰り返していた。期待、という名前の砂の城が崩れ落ちてゆく。
彼女は、再び遠い昔の温泉ホテルにおける追憶を呼び起こした。
今夜は牽制してくれる叔母はいなかったけど、しょせんはダンサーを追いかけることなんてやめろということなのね。
せめて男のぬくもりが少しでも残っていないだろうかと、麻衣はまだ湿った砂の中に指先を潜らせる。
「私、本当に何やっているんだろう。これが、ストーカーになる人の心情なのかしら」
彼女は、暫くそこに俯きに佇んで指で砂を所在なく掻き回していた。その指の上に水の滴が垂れてきた。
「雨?」
麻衣は思わず顔を上に向けた。
そこには赤いタオルを腰に巻いた男が立っている。水は男の長い髪から垂れて来ていたのであった。男は夜の海の中で泳いでいた、漆黒の夜の海の中で。
麻衣の心臓は異常なほどの高鳴り始め、体中の血が逆流するような錯覚を起こし始めた。
これは夢想?だとしたら覚めないで。たとえ夢だとしても、今度こそ何か言わなくては。
「Hi there、何かを探しているのかい?」
最初に声を掛けたのは男の方であった。
ハワイ訛りのある英語であった。その語調は抑揚も控えめであり、何かを訝っている様子もなく、慣れ知った友人に問い掛けるような口調である。
「貴方を探していたの」
とは、喉元まで出掛かった言葉であったが、麻衣はそれを飲み込む。そのような文脈のない答えを返せる雰囲気ではなかった。
返答に困窮する麻衣に一瞥をやると、男は再び問いを投げ掛けた。
「英語は話せる?」
麻衣の沈黙は、英語を理解出来ないものと誤解されたようである。
「I can get by(日常会話程度は話せるわ)」
何かを探しているのか、という自分が投げ掛けた質問の答えを待つ様子でもなく、男は、まだ湿っているはずの黒いショーツの上に直接ジーパンを穿いている。
麻衣は男の背中を凝視していた、そうせざるを得なかった。
このように、手の届く距離に居る男は、麻衣の勝手に作り上げた、理想のダンサーでなく生身の人間である。男は比較的長身ではあったが、舞台の上で舞っている時よりは低く感じられる。
「貴方を探していたの、貴方に会いたかったの」、唐突にそのような言葉を投げ掛けてしまったら、気味悪がられて、逃げられてしまうかもしれない。
「ピアスをこの辺に落してしまって」
これが、咄嗟に麻衣の口から出た嘘であった。下手な嘘だという事は認識していたが、即座に妥当な返答が見つからなっかった。
「ピアス?それなら暗いところで探すより、明日陽が昇ってから探したらどうだ?」
「そうね。それよりも、あなたはどうして夜の海で泳いでいたの?危ないじゃない」
私ったら何言っているんだろう?ようやく逢えた人に責めるような口調で。
「心配してくれて有難う。でもハワイの海では生まれた時から泳いでいるから大丈夫だ。海の機嫌が悪い時は泳がないが、今晩は波も落ち着いている」
男はタオルで長い髪を拭きながら返答した。抑揚のないその口調からは気を悪くしたような様子は窺われなかった。男は続けた。
「ハワイの海は、夜の方が空いていて気持ちがいい。君も泳ぐかい?」
「まさか、夜の海は怖いわ」
「どうしてだい?」
「海底も沖も見えないし、私が溺れていても誰にも見えないし、亡くなった御先祖様とか友人から足を引っ張られそうで」
男は噴き出した。
男が笑ったことで麻衣の緊張は幾分かほぐれた。
男は麻衣の隣に腰を下ろす。
「死んだ友人か、願ったりだね。是非海の中で会ってみたいよ。そして訊きたいね、君は実際どうやって死んだんだって。きちんと話を聞いてやれば奴等も足を引っ張っては来ないだろう」
麻衣は、初対面の男とこれほど自然に話をしている自分に驚く。
同時に、初対面の麻衣と、堅苦しくない態度にて話をする男の態度も意外に感じられる。
これがハワイの人特有のフレンドリーさなのか、あるいは、この男の性格でなのか。
いずれにせよ、幸福だわ。あれほど惹かれた男と、マウイ島の夜の海岸でたった二人で座って話をしている。もう二度と会えることがないとしても、この追憶だけは残る。
時間は刻々と過ぎて行き、男はじきに去ってゆく。それまでの一瞬一瞬を、私の宝物にしよう。
「どうして死んだ人と話をしたいの?」
「俺は医者なんだ。いつでも死体と顔突き合わせてる」
麻衣は、男の言葉を咀嚼するために数秒を要した。
「あなたが医者?ダンサーじゃないの?」
「ハワイの夜空の下で、いつまでも踊っていられたら楽しいだろうな。少なくとも死体と戯れているよりはね。あいにく、今日と明日は、病気になったダンサーの友人のピンチヒッターだよ」
長い髪、小麦色の肌、情熱的なヘーゼル色の瞳、鍛えぬかれた肢体、全てがハワイアンダンサーのために造られたものではないか。
しかし男が嘘をついているようには見えない。
「医者という職業は、生きている患者との接触の方が多いのだと思っていたわ」
「説明が足りなかった。医者は医者でも法医学だ。俺の患者達は既に亡くなっている。患者という呼び方にも語弊があるが」
法医学、一般的にはさほど馴染みのない分野である。
麻衣は、以前、法医学者の友人を訪れた時のことを想起した。
バスルームを借りようと、その家の二階に上った。その時、ふと二階の廊下のテーブルに置かれていたものに気が取られた。
その時、下階から友人が叫びながら駆け上って来た。
「机の上のスライド写真は絶対に見たら駄目だ!」
しかし、麻衣はその時、すでに数枚の写真を記憶に納めてしまっていた。そのスライドには、遺体が異なる角度から記録されていた。
友人が駆け上って来た理由は分りかねた。彼は写真中の人の死因を調査していたところであった。麻衣がショックを受けると危惧したのか、研究室から資料を持ち出したことを恥じたのか。
この時が、麻衣が法医学というものを漠然と理解した瞬間であった。
隣に腰掛けた男は話を続ける。
「毎日死体に話しかけていると、死体も俺に訴えかけているような錯覚を起こす。例えば身元が判定できない時などは、DNA鑑定である程度の事実がわかることもあるが、それより本人の口から事実を聞かせてもらいたい、と切実に願うね。虐待を受けて亡くなった子供の死顔にはいつも訊ねてしまう、一時でも幸せな瞬間はあったのかと」
彼は、何故、こんなことを赤の他人の私に話しているのだろう。でも構わない。彼の口から発せられる言葉であるならが、どんな話題でもずっと聴き入っていたい。
男は、言葉を止めて、麻衣を振り返る。
「生臭い話を赤の他人にグダグダと、申し訳ない。君はどうなんだ?一体何を探しているんだ?」
「だからピアスを」
「さっきここを通った時はピアスなんてしていなかった」
「じゃあ、きっともっと先に落していたのね、困ったわね」
「ディナーの時にも付けていなかった」
男は、あたかもゲームに勝ったように口調を弾ませる。
この人、私のそんなところまで見ていたの?ほんの少し、私に興味を持ってくれたのかしら、それとも、職業上、人を仔細に観察をする習慣があるのかしら。
男の否定はさらに続く。
「ついでに言うと、撮影の時もしていなかったぞ」
「その時も見ていたの?」
「日中、ビーチの真ん中で撮影していたら誰でも見るだろう」
その日の午後、麻衣は、ビキニ姿で波打ち際に横たわり、カメラに向けていろいろと表情を変えていた。水に落ちにくいUVファウンデーションの宣伝用ポスターの撮影であった。
「本当は俺を探していたんじゃないのか?」
男は唐突に問いを投げ掛ける。
その質問と同時に、男の深いヘーゼル色の瞳が麻衣の瞳を真っ直ぐに射抜いていた。