夕陽が太平洋に沈む時 【第1話】
本文
日中は、クリスタルの欠片を散りばめたかのごとく輝いている太平洋も、夜のとばりが下りたあとは、闇の中で時おり波音を立てているだけである。
麻衣は、漆黒の中に目を凝らして何かを探してみようとするが、そこからは一糸の灯りでさえ浮かんで来ない。
背後からは50年代の音楽が流れて来る。エルヴィス・プレスリーのlove me tenderである。ホテルの部屋のサイドテーブルから流れて来ている。
麻衣はバルコニーの椅子に腰を降ろした。ルームサービスから届けてもらったピナコラーダ・カクテルも半分に減っている。果たして、どのくらいバルコニーの縁に寄りかかって漆黒の中に佇んでいたのか。
夫の剛史は、ホテルロビーのビジネスセンターに下りて行ったきり未だに戻らない。すでに2時間は経過している。
剛史の率いるプロジェクトに何らかのトラブルが発生したと言う。剛史は、新婚旅行の時ぐらいは仕事は控えると言ってPCを携帯しなかった。そのため、ホテルのビジネスセンターから日本側に指示を与えるという羽目になっている。
愛の曲を奏でるエルヴィスの声が甘く響けば響くほど、麻衣の、剛史に対する愛と労いの感情が増す。
「今日は11月5日」
麻衣が最初に結婚した日である。
「皮肉なことね。ちょうど11年前の今日、私は純白の花嫁衣装を着てバージンロードを歩いていた」
そして、その同じ晩、新郎は麻衣の前から姿を消した。
麻衣は、バルコニーの椅子から立ちあがって海を見据えようとするが、忽ち漆黒の中に吸い込まれてしまうような錯覚を受け、慌てて腰を降ろす。
あの時の海も、本来ならこれほど暗かったのであろう。しかし、ホテルの敷地の至る所に松明が立てられていたので、海の色は松明の色に染まっていた。
当時の麻衣は中堅モデルとしては脂が乗り出して来た頃で、ハワイのマウイ島をロケで訪れていた。
大学時代に青山で買い物をしている時に、モデルとしてスカウトされたのだ。
ほかにやりたいことも特に無かったので、そのまま惰性でモデルを続けていくうちに、生活が出来る程度の仕事が入るようになってきた。トップモデルというわけには行かなかったが、そうなりたいという野望も持ち合わせてはいなかった。
仕事で知り合う人たちの中には一緒に飲みに行ったりする人もいたが、親しい友人と呼べるものは無かった。その場の勢いで初対面の男とホテルに行ってしまうこともあったが、その男達の顔も名前も、今では記憶からはほぼ消失している。
自身の人生が充実していたか否かは判断しかねるが、不満と呼べる不満も無かった。モデルをしているということだけで、大学のクラスメートに羨ましがられることも多かったが、自分の方が彼女たちよりも幸福であるのか、あるいは不幸であるのか、いずれの自覚も無かった。
「あの頃の私は一体何に喜びを感じて、何に価値を見出して、毎日を過ごしていたのだろう」
毎日の雑事に追われて、人生の意義を深慮する余裕など無かったのか。
しかし、そのような時間も11年前の11月4日を境にして止まった。
麻衣は、追憶の世界に入った。
無聊をかこつ時間が長引けば長引くほど、舞い戻って来てしまう世界である。そしてその世界は、忘却を試みれば試みるほど、鮮明に描かれて来る。
11年前のその晩、マウイ島高級リゾートホテルにて、ハワイアンショーが催されていた。
ホテルのプライベートビーチには多くのテーブルが並べられ、その上にはグリル料理がところ狭しと置かれていた。そのテーブルを囲む国際色豊かな人々のシルエットは、松明の炎の中で朗らかに蠢いている。麻衣の所属するロケ隊は、ステージに一番近いテーブルを予約してあった。
麻衣は、子供の時に日本の温泉ホテルでハワイアンショーというものを鑑賞したことがあったので、この晩のショーが大概どのようなものかは想像が付いていた。
先ずは豊満な女性達に依るフラダンス。
「真ん中で腰振っている女性なんて日本に連れて帰ったら、即刻モデルになれるだろうな」
ディレクター兼カメラマンの叶がステージを指差しながらそうコメントした。周りの男性陣も頷いている。
麻衣は咳払いした。
「もちろん、我が麻衣ちゃんには敵わないけどさ」、叶は狼狽しながらコメントに追記を付けた。
「適うとか、適わないとか、そういうの、どのような基準で誰が決めるんですか?」
麻衣は、抑揚を控えた口調にて反論した。嫉妬をしていると誤解されては心外である。
麻衣は、カメラマンとしての叶は尊敬している。叶のファインダーを通すと、あらゆる被写体が芸術品として再現される。その叶の口から女性を値踏みするような表現は聞きたくなかった。
叶の表情は一瞬強張り、その口元は暫く結ばれた。
そして、「悪かった。これは失言だったな。今宵の雰囲気に酔い過ぎてしまったようだ」、と反省の言葉を返した。
その晩のハワイアンショーの雰囲気とカクテルに酔っていたのは、叶と他の男性陣のみではなかった。周りの客も騒ぎ、囃し立て、笑っていた。その騒ぎ声は麻衣を素通りしてゆく。
彼女は恍惚としていた。
11月のハワイの心地よい温かさ、松明に揺れる着飾った人々のシルエット、仕事後の開放感、ほどよく冷えたノンアルコールのピナコラーダ・カクテル、心臓に響くドラムの音、明るすぎるほどの照明に照らされた完璧なフラダンサー達、麻衣は全てに魅せられていた。
「麻衣ちゃん今日はお疲れ様、ショーがはねたら一緒に散歩しないかい」
隣の席に座っていた叶が囁く。
叶は35歳前後であろうか。麻衣は、カリスマディレクターと定評のある彼に対して、仕事仲間としては多少の好感は抱いていた。
「お疲れ様です。いいですよ」
麻衣は短く返答すると、再びショーに集中する。
ここにいる人たちは、皆、なんて楽しそうなの。これほど明るい太陽の国で育ったら楽天的になるのかしら。それにこの島の人たちはフレンドリーで優しい。
その頃の麻衣には表面的なものしか見えていなかった。
羽振りが良さそうに見えるその高級ホテルも、内情は火の車であったことも後から知った。ハワイにも不況の波が押し寄せており、職を求めて、家族をハワイに残して本土に移る人も増えて来ていたことも、麻衣の知るよしではなかった。
しかし、そのような憂慮は、ダンサー達の表情からは微塵も窺えない。
女性フラダンサーのショーが終わった。次にステージに上がって来たのは三人の男性ダンサーである。女性ダンサーが踊っていた時には口元を弛めてステージに集中していた男性スタッフ達は、多少落ち着いてバーベキュー料理をつまみ始める。
「麻衣ちゃん、食べないの?これ美味いよ」
スタッフの一人が、チキンのドラムスティックを麻衣の目の前に掲げた。
「結構です、ありがとう」
「なんか麻衣ちゃん、ショーにはまっちゃってますよ」
スタッフの誰かが囃して言うのが聞こえる。
実際、麻衣はショーに完全に魅せられていて料理どころではなかった。
三人の男性ダンサーはいずれも筋骨隆々としており、オイルでも塗っているのか小麦色に焼けた肌には光沢がある。
真ん中と右の男はセミロングの黒髪、左側の男は肩より少し長い黒髪を束ねている。三人とも腰に赤いシルクの布を巻いているだけである。ドラムの音に合わせて炎の燃え盛る松明を旋回させている。観客からは歓声が止まない。
真中と右側の男は始終微笑んでおり、真中の男からは優しそうな印象を受ける。彼らは、彼は時おり力強い掛け声を上げている。
しかし、麻衣が一番気になったのは一番左の長髪の男である。男は微笑んではいなかった。男にとって大切なのことは、一つ一つ火の舞を精確にこなしていくことだけのようである。そのため、愛想笑いを浮かべている余裕はなさそうであった。
記憶の断片が、不意に鮮明に浮かび上がって来る。
小学校六年の時に、日本海沿いの大型温泉ホテルで鑑賞したハワイアンショーのことである。あの時もやはり男性ダンサー達が火の舞を披露していた。
その時も、麻衣は今回のように完全に魅せられてしまっていた。そして、ショーがはねたあと、必死でダンサー達を追いかけて行った。しかし、同じホテルに泊まっていた叔母と偶然エレベーターで鉢合わせし、その行為を見咎められた。
「追いかけて行って一体どうするの?」
叔母のその一言が、麻衣を引き留めた。
10年間も脳裏にしまわれていた昔の記憶が、突如、前面に引き出されたのだ。果してあの時、12歳の女の子がダンサーを追いかけて行って何をするつもりであったのだろう。
答えは出ない。
仮にあれが現在起きたことであったら、追いかけて行ったダンサーと寝てしまうのかしら。否、これはそのような動機ではないわ。私は火の舞、という一種の芸術に惹かれているだけ。
いろいろと自問自答してはみるが、麻衣の視線はやはり左側の男に釘付けになる。
炎を見守っていた男の視線が、ふと麻衣の上に降りて来た。
その刹那、麻衣は自分の顔に激しい火照りを感じる。
男の視線は麻衣の顔面から動かない。
「いいよ、ここまでおいで」
あたかも、そう仄めかしているような男の手の動きであった。
麻衣の心臓は激しく鼓動し始める。
心臓の鼓動が辺りに響いていないかと懸念したが、スタッフたちは世間話に花を咲かせながらひたすら料理を貪っている。
ダンサーの男の視線は、ほとんど無遠慮に麻衣の顔面を射抜いている。
やがて火の舞は終わり、男達はステージを駆け降りた。
麻衣は男の後ろ姿が消えてゆく最後の一瞬まで目を離せない。出来ることならば、六年生の時のように彼らを追いかけて行きたかった。しかし、二十五歳の分別と、ハワイにはロケのために訪れているという状況が、麻衣にブレーキを掛けている。
それから30分くらいしてディナーショーは幕を閉じ、スタッフたちはそのままホテルのバーに流れた。
麻衣と叶はディナー会場を背にして、夜の海辺に出た。海風が心地良い晩である。
「ショーは楽しかった?随分熱中していたようだけど」、叶が会話の糸口を開いた。
「小学生の時、日本のホテルで見た事があるんです、似たようなハワイアンショーを。それで何だか懐かしくなってしまって」、と麻衣は答えた。
ダンサーを追いかけて行ってしまったことまで、叶に告げる必要は無いであろう。
「麻衣ちゃんは小学生の時から、人目を惹く女の子だったのかな?」
モデルの仕事を始めたばかりの頃は、このような質問を受ける度に赤面していたが、この頃には慣れてしまい、単なる一形容詞としか享受出来なくなっていた。
「背は後ろから数えた方が早かったけど、髪も短くて男の子みたいだったと母によく言われます」
叶は軽く微笑んだ。
「身長175センチ、潤いたっぷりの漆黒の長髪。一見涼しく冷たくも感じられる君の瞳だが、ファインダーを通して凝視してみたら慈愛に溢れている。不思議な瞳だよ。一度虜になったら目が離せない。そんな瞳の持ち主だよ、君は」
叶は麻衣の肩に軽く手を置いた。骨ばった手である。
「麻衣ちゃん、君はその気になったらもっともっと活躍できると思う。僕はそのために協力は惜しまないよ」
麻衣は、街を歩いていると時々、自分が微笑んでいるポスターに遭遇する。気分が晴れない日に、そのポスターに遭遇すると奇妙な心情に陥る。笑いたい気分でもないのに、ポスターの中の麻衣は満面に笑みを浮かべている。
「私にははっきり言って方向性がよくわからないんです。こんなこと言ったら、モデルになることを切望する方々には申し訳ないけれど、私は、気が付いたらモデルになっていたような感じだから。それが私にとって天職なのかもどうかも定かではないし」
叶は意外そうな表情を見せる。
「モデルになることを渇望しても夢叶わぬ多くの女の子たちにとって、それは確かに激怒発言だね。君は本当は何をしたかったの?大学は確か青南だったね、そこでは何を勉強してたの?」
「英文科でした」
「英語を使った仕事をしたかったわけ?」
「そういうわけでもないけど、高校時代の友人達が皆そこを受けたのでなりゆきで」
叶は爆笑した。
「君の人生はすべてなりゆきなんだね。自分で情熱を以て決めたことは無いのかい?」
叶の見下すような語調に麻衣は多少憤慨した。
「叶さんはどうなんですか、どうしてカメラマンになったのですか?」
「小学生の時からの憧れさ。家の前で犬が車に轢かれてね、おやじのカメラでその犬の死骸を何枚も撮った。あれはまったく無残な死に様でね、この写真を沢山の人が見れば、車を運転する人もきっと気を付けるようになるって思ってさ」
叶は神妙な表情で麻衣の問いに答えた。今度は、麻衣が意外に感じる番である。
「小学生の時から問題意識が芽生えていたんですね」
犬の死骸の前で涙を浮かべながら、何度もシャッターを切っている痩せた少年が想像出来た。叶は現在でも痩せ型である。肩まであるドレッドヘアーの茶髪のカメラマン。一見レゲエ風貌でリラックスした雰囲気を持つカメラマンではあったが、確固とした自分軸を持っている人だと麻衣は感じていた。
「それなら何故、今はビキニの女性なんて撮ってるのかと訊ねないのかい?」
叶は問い掛ける。
「一瞬訊ねようかと思いました」
叶は苦笑した。
二人はしばらく無言にて砂浜を歩いていた。ホテルの明かりが次第に遠ざかって行く。
ふと、木陰に人の気配を感じ二人は足を止める。太いヤシの木の根元には一人の男が腰を降ろしていた。
男は二人が近付いてくる様子に気が付いていたようである。
「あっ」
麻衣は思わず声を上げる。
「どうしたんだい?」
叶が訊ねると同時に、座っていた男は親指と小指を突き立てて二人にハワイ風の挨拶をする。
麻衣は硬直しながら軽く目礼する。
浜辺に座っていた男は、麻衣が目を離せなかったあのダンサーであった。今はジーパンを穿いているが見間違える訳が無い。
麻衣は困惑する。
どうすればよいのだろう。間が持たない。何か話し掛けるべきなのか、しかし叶の手前である。叶と一緒に歩いているところを男に見られたこと自体、気が引ける。
叶が助け船を出した。
「随分遠くまで歩いて来てしまったね、そろそろ戻ろうか。戻って俺の部屋でワインクーラーでも飲み直さないかい?まだ明日もお互い仕事だから軽めにね」
「あ、ええ、そうね」
二人はホテルへ戻り始めた。
麻衣はしばらくして、叶に気付かれない様にさりげなく男を振り返る。男はもう二人を見ていない。海の方を見て煙草を吸っているようであった。
「きざな野郎だったな、今の男」
「今の人」
さっきのショーのダンサーよ、と言いかけたが止める。そんなことは、叶にとっては何も意味を成さないことに違いない。それよりも、この感情はそっと麻衣の胸中だけに仕舞っておきたい。