夕陽が太平洋に沈む時 【第3話】
麻衣は即座に言葉が出ない。
この期に及んで、再び嘘をついてみても、この男にはおそらく見透かされてしまう。素直に肯定してしまえば、何らかの結果が出るかもしれない。でも、その結果が必ずしも望ましいものになるとは限らない。
麻衣は立ち止まって再考する。
そもそも、私の望むような結果ってどんなこと?叶さんに指摘された通りだわ。なりゆきで生きて来た私は、望むべきものもわからない。
麻衣は、自身の心情を可能な限り真摯に描写しようと試みる。
「何とか秩序立てて説明してみるわね。今晩、私はあなたの火の舞にとても魅せられて、またどこかで逢えたら、と期待していたの。だから貴方の推察は正解。本当に探していたのは貴方よ。ピアスと言って誤魔化したのは、貴方に嫌な思いをさせないため」
これが、おそらく私の伝えたかったこと。でも、言いたいことはおそらくまだある。
男には麻衣の返答が聞こえていたはずであるが、何の反応も表わさず無言で夜の海を仰いでいる。やがておもむろにジーパンの後ろポケットからダンヒルの煙草を取り出し、火を点けた。しかし、それを直後に消し麻衣を振り向いた。
「Do you mind?(吸っても構わないかい?)」
麻衣は即座に首を振った。彼女は重度の嫌煙家ではあったが、男の成すこと、言うことは、如何なる所業であろうと、全てを許容出来ると確信した。
この現象は一体どのように解釈すれば良いの?もしかしたら、これが一目惚れ、と呼ばれるものなの?
麻衣の大学の後輩に、懸命にアルバイトをして一目惚れをした男性のために高級ブランドのタグ・ホイヤーの時計をプレゼントした女性がいた。彼女はその長時間のアルバイトのために単位を落としてしまった。麻衣はその女性に「冷静になりなさいよ」、と忠告した覚えがある。
今ならあの後輩の心情が多少理解出来る。二十五年生きていて初めて体験した一目惚れというもの、これまでの私の価値観を完全に覆すもの。甘くて切ないもの。
ステージの上で火の舞を踊っていたハワイ島の男。
その男の逞しい肩は今、麻衣の手の届くところにある、彼らを囲んでいるのは黒い海と満天の星だけである。
この逞しい肩、触れようと思えば触れられる。でも触れられない。私が何の感情も抱いていない男だったら、これだけの大道具が揃っていれば、その場で接吻となっても不思議はない。それなのに、生まれて初めてこれほど惹かれた男には、何故かその手にさえ触れる事ができない。
「似非ダンサーでがっかりしたかい?」
男は涼しい笑みを向けながら訊ねる。
「驚いたけど。でもお医者さんだとは想像も出来なかったわ」
男は短く苦笑すると腰を上げる。
いよいよだわ。彼は去ってしまう。彼の姿を心の奥に焼き付けておこう
立ち上がる際、男は言った。
「明日は隣のホテルで火の舞を踊る予定だ。もし時間の都合が付いたら、見に来ればいい。明後日にはホノルルの病院に戻る予定だ」
早口にてそう言い残すと、男はホテルを背にして歩き出した。
男の逞しい背中を見つめているうちに目頭が熱くなり、足元が震え出した。狭心症の発作を起こしたかのように心臓が苦しくなる。
お願いよ、行かないで。
彼が行ってしまうなんてやっぱり嫌、今、何かを言わなければ一生後悔する。そう一生。
「待って!」
麻衣は男の背中に向かって叫んでいた。
男は一瞬立ち止まると、ジーパンのポケットを探った。何か忘れ物でもしたのかと、確認した様子である。その後、ゆっくりと麻衣を振り向く。
もう後には引けない。麻衣は深呼吸して言葉を発した。
「Would you marry me, please(お願い、私と結婚して)」
男はその場に立ち止まったままである。麻衣が発した言葉を脳裏で反芻し咀嚼しようとしているようだった。
やがて男は微笑みながら麻衣の方へゆっくりと歩いて来る。
え、私、今何を言ったの?
「君の名前は?」
男は訊ねる。
「麻衣、笠島麻衣。貴方の名前は?」
「コニーだ。さっきも言ったが俺は本当のダンサーではない。今夜の火の舞も付け刃だ。恩を受けた友人が骨折したから代わりに舞台に出ただけだ」
「付け刃だったとしても貴方の火の舞は素晴らしかった。でもそれだけじゃないの。私には貴方しか目に入らなかった。25年間生きてきたけどこんな気持ちになったのは初めて。自分の気持ちをコントロールが出来ないことなんて、今まで一度だって無かったのよ」
熱い涙が麻衣の頬を伝わりはじめる。
滲んだ視界の向こうの男は、満天の星の夜空を見上げてしばらく熟慮しているようであった。
やがて、口を開いた。
「君、子供は欲しいのかい?」
「はい?」
今度は麻衣が困惑する番である。
法医学の友人のところで見掛けたスライド写真が、一瞬脳裏を横切る。あの写真に記録されていたのは、おそらく子供であった。
「正直言って、子供のことは考えたことはないわ。居れば居たで楽しいのでしょうけれど、子供は出来ない、と言われたところで悲観に暮れることはないと思うわ。貴方の場合は?」
コニーは麻衣の質問には答えず、「明日、午前9時にラハイナ第五チャペルにおいで」、と言い残し、再びホテルから反対方向へ歩いていった。
今度は、麻衣は男を呼び止めなかった。
我に返った時、麻衣はいつの間にか自分の部屋のベッドの上に座っていた。
どうやって戻ってきたのだろう。
エレベータに乗った記憶も、ドアの鍵を開けた記憶もまったく無い。
ベッドの正面の壁には鏡が掛けてある。そして、その中には白いカクテルドレスを可憐に身に着けた若い女が居る。
心中の困惑などは微塵もその中には映されていない。
「Would you marry me?(私と結婚して)」
私、確かにそう言ったわよね。おそらく、私ともう一度会って、と言うつもりだったのよね。無我夢中だったとは言え、何をどう混同して結婚して、になったの?
麻衣は窓を開けてバルコニーに出た。時おり波が浜辺を打つ音が聞こえて来る。
でも、おそらくそれが私の深層心理。あの男とずっと一緒に居たい。一時でも離れていたくはない。
今まで本当にいろいろな男と知り合ったけれど、一度だってこんな風に感じた事は無い。この先もおそらく無い。最初は彼の火の舞に魅せられたのだけかもしれない。でも魅せられたのは彼にだけ。他の二人には何も感じなかった。浜辺で彼と話をしていたほんの30分くらいの間、それこそ至上の幸福を感じていた。あの瞬間が永久に終わらなければいいと思っていた。
麻衣は、先刻まで男と話していた方角を見下ろした。あまりにも現実味に欠けていたため、今晩実際に自身に起きた出来事として咀嚼することは至難の業であった。
彼は、ラハイナ第五チャペルにおいで、と言った。一体どういうことなんだろう、私の事を奇妙な日本人女と思ってからかったのかしら?それとも教会で待ち合わせをして街案内でもしてくれるつもりなのかしら?
「午前9時って言ってたわ、でもその時間には撮影がある」
麻衣は狭いバルコニーを歩き回る。
仕事に穴を空けてラハイナに行っても彼がいなかったら、どうしたものか、と試行錯誤を繰り返す。
麻衣はしばらく歩きまわっていたがついに足を止めた。
「迷う必要なんてないのよ。私の中では、答えなんてとっく出ているじゃない」
次の日の朝8時に麻衣は叶の部屋へ電話をした。
「やあおはよう、どうだい調子は?」
「まだ気持ち悪い、後頭部がガンガンするんです。こんな調子ではカメラの前で微笑んだり出来ません」
麻衣は、嘘も演技も苦手ではある。アルコールは一滴も口にしてはいないが、この嘘は、叶にどうしても信じてもらわなければならない。
「それは困ったなあ、もう今日しかないんだよ。どうしても駄目かい?」
電話口の向こうで叶は、不機嫌さを隠さず舌打ちしていた。麻衣が知らなかった叶の一面であった。
「本当にごめんなさい。叶さん、午前中だけ休ませて頂けませんか?その代わり、午後からは絶対にNGを出さない様に頑張りますから!」
受話器の向こうからは、深いため息と暫しの沈黙が淀んでいる。
「仕方ないなあ、じゃあ他のスタッフには俺から説明しておくよ。これからは撮影前は飲酒を控えてくれるかい?」
「本当に反省しています。ごめんなさい」
電話を切ったと同時に麻衣は、なるべく目立たぬようにと、黒いワンピースに身を包み黒いサングラスを掛け、黒いつば広帽子を被り、部屋を飛び出す。
なるべく人の集まる場所は避けながら、ホテルのロータリーへ急ぐ。幸い、知っている顔には遭遇しなかった。
「ラハイナ第五チャペルへ急いで、お願い!」
麻衣は、最初にロータリーに入って来たタクシーに乗り込んだ。
タクシーがチャペルに着いたときは、麻衣の腕時計の長針は9時を10分間過ぎていた。果たしてチャペルの前には誰もいなかった。
麻衣は肩から力が抜けた。
「やっぱりからかわれたんだわ」
脱力した麻衣はチャペルの白い階段の上に座り込んだ。すぐにホテルに戻る気力はない。
「どちらかと言うと結婚式と言うよりは、葬式の井出達だな」
男の声と共に、座り込んでいた麻衣の正面に白いコルベットが滑り込んで来た。
「10分間の遅刻だぞ」
オープンカーの運転席を見上げたら、コニーが座って麻衣を見下ろしている。白いタキシードを着て胸には赤いバラの花を一輪差し、長い髪は後ろで一つに束ねている。
麻衣は唖然としてサングラスを外す。
コニーは車から降り、麻衣のために助手席の扉を開いて手を差し伸べる。
「どうぞ」
相変わらず呆然と立っていた麻衣を彼は促す。
「行こう、時間がない」
「行こうってどこへ?」
「宝石店だ。先ずは指輪だ」
「指輪?」
「結婚指輪だよ、もちろん。それがなきゃ始まらないだろう」
果たして、私は一体夢を見ているのかしら?こんな事が現実にあるわけないわ、ハーレイクイン・ロマンスじゃあるまいし。彼が本当に私と結婚してくれるというの?
コニーは、ホワイトゴールドのリングを二本購入した。シンプルなデザインであったが麻衣には異存は無い。その後、彼は麻衣を二軒先のパーティードレスの店に連れて行く。
「この辺のものならどれでも君に合うだろう。好きな物を選ぶといい。急かして申し訳ないが、10分間で選んでくれるかい?」
麻衣は袖の先が広がっている中世風のドレスを指さす。職業上、自分に合うタイプのデザインは理解していたため、迷う必要は無かった。
ドレスの代金もコニーがカードで支払う。
「なんて素敵なカップルなんでしょう」
ドレス店を出る間際、背後から若い女性達の嘆息と感嘆が響いて来た。
カップル、私達、傍からはカップルに見えるのかしら。昨晩が初対面の二人だと知ったらあの人達は驚くかしら。それとも、南の島では珍しいことではないのかしら。この島では想像もしていなかったようなことが次々と起こる。ここは果してからくり島なのかもしれない。
二人はドレスを車の後部席に積んでチャペルの駐車場に戻る。コニーは余裕のある運転をする男であった。
「コニー」
麻衣は、躊躇しながらも差し伸べられた彼の手に掴まる。
「何だい?」
「貴方は本当に私と結婚してくれるつもりなの?」
コニーは足を止める
「指輪もドレスも買った後で後悔したのかい?」
「後悔なんてしていない、するわけないわ。でもどうして?昨晩知り合ったばかりの私とどうして結婚できるの?」
「奇妙な質問だな。提案したのは君じゃないか」
コニーは半ば呆れ顔である。
「そういう意味ではなくて。貴方は、誰かに結婚して欲しいと嘆願されたら誰とでもしてしまうの」
「誰とでもはしないさ。第一、俺はモルモン教徒でもないから何人も妻は持てない。さあ、時間がないからもう行こう」
「でも貴方は私の事をほとんど知らない。私も貴方のことを、職業以外は知らないわ」
「その知らない男と結婚したいと言ったのは君だろう」
「実際に結婚したら私達どこに住むの?」
「どこでもいいさ、ハワイでもアメリカ本土でも日本でも。話が済んだのなら行こうか。結婚式の予約がぎゅうぎゅうに詰まっているところに強引に入れてもらったんだ」
コニーは車から出ると麻衣の席のドアを開けた。
「行こうか、俺の妻になる女性」
ヘーゼル色の瞳は暖かく麻衣を見下ろしていた。彼の漆黒の髪はマウイ島の陽射しを受け輝いている。麻衣の手は彼の大きい手に包まれている。
私は何を迷っていたのだろう。私は彼とずっと一緒に居たいのよ。彼しか欲しくない。両親にも伝えていない、招待客は誰もいないインスタントの結婚式。でも大道具も小道具もまったく重要じゃないのよ、だってこの人と結婚できるのだもの。
チャペルの控室にて純白のウェディングドレスに着替えた麻衣は、バージンロードを歩き始めた。
1995年11月5日、11年前のマウイ島の秋の追憶であった。
ホテルのバルコニーにもたれ掛かって闇を見詰めていた麻衣の肩に、温かい手が置かれる。
ホテルのビジネスセンターで仕事をしていた夫の剛史であった。
「瞑想の時間は終わったかい?」
「あ、気が付かなかった、ごめんなさい」
麻衣は11年前の追憶から現代へ呼び戻された。
マウイ島の太陽の下からプーケット島の漆黒の海へ。