夕陽が太平洋に沈む時 【第5話】
この人は、それほど狡猾で悲愴な嘘まで付いて女を誘いたいのか、と麻衣は嫌悪感を催した。衣装合わせの時には、必要以上に麻衣の身体に触れて来る時もあった。
「小野田さん、貴方の勝手にすればいい。身に覚えがないことだから私にはどうしようも出来ないわ」
麻衣はそう言い残して席を立つ。この撮影チームとふたたび一緒に働くことはないと確信した。
「みなさん、ロケの期間中、本当にお疲れ様でした。私も少し疲れました。お休みなさい」
小野田が焦燥した様子で席から立ち上がる。この展開は想定外だったのであろう。
「えー、麻衣ちゃんもう行っちゃうのか、残念」
後ろからスタッフがそう輪唱していたが、麻衣は一度も振り返らずに足早に部屋に戻った。
今頃は小野田が叶に告げ口をしているかもしれない、とほぼ確信する。
しかし、そのような疑問は、麻衣にとっては如何なる意味もなさなかった。仮に、就業態度に問題があるため契約破棄、などと干されることになったとしても、麻衣は狼狽えることはないであろう。最初のうちは華やかに見えたこの業界が、この一日で色褪せてしまったかのように感じられる。
「今まで私、何をやって来たのかしら?」
麻衣の人生は、人に言わせれば、何もかも一路順風に運んで来たようである。本人にも不満は無かった。お金に苦労したこともなく、この業界の仕事もそれなりに楽しかった。
麻衣は部屋の鍵を開け、そのままベッドに雪崩れ込んだ。白い天井が、麻衣の細い体の上に押し被さってくるような圧迫感を感じさせる。
私、自分から、これほど何かを渇望した事が一度でもあったかしら?
たった一人の男に会うために、傍からは輝かしく見えるキャリアを捨てる覚悟さえする。自分がそのような行動を採ることは全く想定外であった。
モデル仲間の一人が、北海道に移った恋人を追って行こうとしたことがある。その時、麻衣はその友人に、「北海道は少し遠いわね。貴方なら東京でもすぐに新しい人が見つけられるんじゃない」、と慰めのつもりで説いた。
友人は麻衣を鋭い視線で見据えると、怒りを押し殺したような低い声でこう答えた。
「貴方は可哀想な人ね。貴方には本当の愛と言うものがわかっていないのね、きっと」
その時には戯言のように感じられた知人の言葉は、今の麻衣にとっては脳髄まで浸透している。
「コニー待ってるわ、貴方が何時に来ようと、ずっと待ってるわ、ずっと、ずっとね」
麻衣はホテルで購入したサンドレスを身に纏っていた。赤い地に色とりどりのハワイの花がプリントされている。胸から肩にかけて共布のフリルが付いたそのドレスは、彼女の華奢な体を華やかに見せている。
鏡の前で、麻衣はドレスを胸から下にそっとずり降ろす。そこには、肉感的ではないが、バランスの整った女性の全身が映されている。
目を閉じると、彼女の脳裏にはコニーの逞しい腕が感じられた。想像の中では、麻衣の華奢な身体は彼の腕にすっぽりと包まれている。
彼は、撮影時に私を見たと昨晩言っていたわね。ちらっと見たということなのかしら、それとも凝視していたのかしら。
「ああ、待ちきれないわ」
麻衣は時計を見る。午後9時であった。
「まだこんな時間。随分打ち上げを早めに切り上げて戻って来てしまったものね、みんなまだ飲んで話をしているのかしら?」
赤ら顔の小野田の顔と神経質そうな叶の横顔が、麻衣の脳裏を一瞬横切る。
前回のハワイアンショーの終了時間を鑑みると、コニーが来るのは午後11時よりも後なのでは、と推測された。
麻衣は温かいバスに浸かることにした。バスルームには、同ホテルのスパで使用されているアロマオイルが置いてある。そのオイルを、アロマディフューザー(拡散器)に数滴垂らすと、バスルームはジャスミンの芳香に包まれる。
麻衣は髪と身体を洗うと、バスタブに湯を張った。
バスタブの中に深く浸かっていると、ハワイに到着してから、初めての疲れが感じられる。疲れと共に微かな眠気さえ催して来る。撮影が終わったので、打ち上げの時にピナコラーダを数杯飲んだのだ。かなり大量のラム酒が含まれていたように感じられたが、飲み心地が良かったので一気に飲んでしまった。
麻衣はうつらうつらとしながら、しばらくはジャスミンの芳香の中に身を遊ばせていた。
ふとノックの音がしたように感じられた。
麻衣は耳をすませる。
「コニー?、思ったよりも早く終わったのね」
ハワイアンショーがはねてから来る予定にしては、早すぎるような気もする。
結婚式を挙げた日だもの、早く仕事を終わらせてくれるように交渉したのかもしれないわね。彼が想定外の行動を採る人だということは、もうわかったし。
麻衣は身体を拭いて髪を急いで梳かすと、エスカーダの香水を首の後ろに少量噴霧し、その後、白いシルクのバスロブを羽織って部屋のドアを開けた、最高の笑顔を浮かべて。
果たして、ドアの外に意気消沈したような面持ちで立っていたのは、
「叶さん!」
笑顔は、麻衣の顔面から表情から一瞬にして失われた。
「麻衣ちゃん」
「叶さん、一体どうして」
麻衣は慌てて胸元を閉じ合わせる。
「はは、大丈夫だよ、俺はいつもカメラのファインダーを通して君の身体を追っている。そんな薄い布切れ一枚で隠してもすべて透視できるんだぜ」
アルコールが入っているせいか、普段の叶よりも多少押しが強いように感じられる。しかし普段なら、酒を飲んだあとでも紳士的な部分の方が表面に押し出されている。
「そんな言い方、叶さんらしくないわ」
「俺らしさって何だい?純朴面しているから簡単に騙せるってことかな。俺に嘘をついてまで仕事に穴を空けた理由を聞かせてくれないか?」
麻衣は突如、後頭部から血が逆流するような感覚を受けた。一瞬、動揺している間に叶は部屋に入り込みドアを閉めている。
「な、何を?」
叶は冷酷とも表現されるような表情で言葉を続ける。
「なあ麻衣ちゃん、俺たちのような仕事って信頼関係から成り立ってるんじゃないかな。ラハイナに行きたいんだったらそう言ってくれれば、仕事の後に俺が連れて行ってあげたのに」
やはり小野田が告げたのだ。叶の目は血走っている。
この場に及んで嘘を重ねれば、事態はさらに悪化することを麻衣は悟った。
「君は俺を信頼していると信じていたよ。だから俺も君の信頼を裏切らないように努めて来た。しかし、君が俺の信頼をこういった形で裏切ってくれたのなら俺にも考えがある」
叶は果して何をしようとしているのだろう、と不安になり麻衣は一歩下がる。
「麻衣ちゃん、こんなチンケな男にもプライドってもんがあるんだぜ」
呂律の回らない調子でそう言うなり、叶は麻衣のバスロープを剥ぎ取り始める。
「嫌だ、何をするの、叶さん、気でも違ったの?」
「いや、これほど正気だったことはかつてないね。今までは君を大切に思っていたから手を出さなかった」
「じゃあ今はもう大切に思ってくれていないの?」
「俺は信頼していた人間に裏切られるのが、一番耐えられないんだ」
ロケの期間中、叶の前ではカメラを通していつも水着姿でいた。しかし今、叶はカメラを越えて生身の麻衣に挑もうとしている。
「止めて、そんなことは、貴方はそんな人じゃない」
「どうかな?」
叶は麻衣の腕を強引にベッドまで引きずって行く。
「誰か来て!ヘルプ!」
麻衣が叫んだと同時に、叶は即座にテレビのリモコンを押した。テレビでは戦争映画が放映されており、銃撃戦の場面であったので麻衣の叫び声は遮られる。叶はテレビのボリュームをさらに上げる。
コニーがもうすぐ来てしまう。こんな場面を彼に見られたら、全てが終わってしまう。麻衣の初夜はコニーのためのものであった。一筋の涙が、横たわっていた麻衣の耳を熱くした。
「叶さん、わかりました。でもせめてドアの鍵を閉めて下さい」
「ドアの鍵は閉めてある」
叶は赤いアロハシャツのポケットから何かを取り出した。赤いシルクのスカーフであった。麻衣は悪寒を感じた。
「貴方、一体何をしようとしてるの?」
「痛いことはしないよ、騒がずにじっとしていてくれさえすれば」
叶は、麻衣の両手首を、スカーフで籐のベッドに数重に結びつける。
麻衣はパニックに陥る。
「叶さん、こんなの嫌。こんなことは止めてよ」
叶さんとは仕事上の付き合いしかない。本来は異常な性癖を持った人間であることもあり得るわ。
「ああ、いいねえ麻衣ちゃん、その喘いだ顔をスティル写真に残したいね」
叶は肩から掛けていたカメラで何度も写真を撮り始めた。麻衣が顔を背けると、叶は麻衣の顎を掴みレンズの方を向かせる。
「心配しなくていいよ、これは公には出さない。俺が一人で楽しむために残しておく。これを使って君を脅そうとも考えていないよ、そこまで堕ちてはいないよ、おそらくね」
そう言いつつカメラをテーブルの上においた。
その後、叶はその手をカメラから麻衣の白い胸へ移動した。
「いいよ、麻衣ちゃん。ファインダーを通して鑑賞しているよりもずっといい」
叶を押しのけようにも手を縛られているので出来ない。麻衣の胸は叶の骨ばった手に乱暴に蹂躙されている。麻衣の叶に対する恐怖は次第に減退し、その代替として嫌悪感が増長し始める。叶は麻衣の太ももを拡げるとひとしきり眺め、そこに酒臭い息を吐きかける。
叶はショーツとトランクスを緩慢に下ろした。その後、麻衣の上に馬乗りになると、身体を上下に動かし始める。
麻衣は目を閉じる。
彼女の白い身体の周りには、何らかの爬虫類動物が這いまわっている。そのような錯覚を受けていた。
その瞬間、麻衣は悟る。
咽喉から手が出るほど欲しい物が手に入ることなど、自分にはあり得ないのだということを。
チャペルでは最高に幸福であった。あの瞬間が今まで生きてきた人生の中で唯一、真実だったのだと感じていた。
間違えた男の為に、間違えてドアを開いてしまったために今、全てを失おうとしている。
間違えた時間に間違えた場所に居合わせてしまうこと、間違えた男に会ってしまうこと、そのような事象は人生において容易に起こり得ることである。それほど起こり易いことに翻弄されてしまうほど麻衣の幸福は脆かった。
しょせん、幸福とはほんの一刹那の間の現象であり、泡沫のように蒸発してしまうものなのだ、と麻衣は理解した。
今までは曖昧の華やかさの中に身を溺れさせ、今はこうして堕落の中に無理やり引きずりこまれている。今後もこのような人生が続くのであろうか。
麻衣が考えを一瞬停止させたら、叶の激しい呻き声が聞こえてくる。
これが私の運命というものなのだろうか。
「叶さん」
麻衣は冷めた声で叶の注意を喚起した。叶の激しい息遣いと、上半身の動きは止まらない。
「叶さん、今何時なの?」
初めて叶の動きが止まる。彼は不可解そうな表情で麻衣の瞳を見つめた。
「感じてないのか?」
「今、何時なの?」
「11時5分前だ」
叶の酔いは一気に醒めたようであった。
「感じなかったのか?」
叶は同じ問いを繰り返した。麻衣の沈黙を同意と誤解していたのであろう。
「叶さん、ベッドに繋がれた私を静視出来る?貴方が無理やり拘束したのよ。それで私が喜ぶとでも思っていたの?」
麻衣には実際に身動きがとれない。このまま叶を逆上させ、さらに乱暴されたとしても防御すべく術もなかった。テレビの音量は相変わらず高い。コマーシャルが入る時は、その音量はさらに高くなる。隣の部屋からクレームが出そうなボリュームではあったが、隣の部屋に宿泊客が戻ってきている気配は無かった。
コニーが今この場に現れたら、私を救出してくれるのかしら。そしてそのあとは。新婚初夜に他の男にレイプされている妻を目撃したら、結果は火を見るより明らか。
自暴自棄、空虚感、あるいは喪失感が麻衣から恐怖感を剝ぎ取っていた。
「でも君は俺の信頼を裏切った」
麻衣は苦笑いをする。
「貴方の信頼を裏切ったから、こうやって報復してもいいというのね。貴方のこと、本当に誤解していたわ。信頼さえしていたわ。それならこれでおあいこね、貴方もこうして私の信頼を裏切った」
麻衣は高笑いをし始めたが、目頭が熱くなりひどい頭痛がした。完全に自暴自棄になっている。
「叶さん、今の貴方に死んだ犬の写真は撮れるかしら」
叶は深く長い溜め息をつくと、カメラに手を伸ばした。窪んだ印象の大きい瞳がさらに窪んでいる。
「おれが堕落した記念に貰っておいてくれよ」
叶はカメラからフィルムを取り出すと麻衣の頭の横に置いた。そして丁寧にスカーフを解き始め彼女の手首を解放する。その後、生温かい液体に覆われていた麻衣の腹部に、そっとタオルを掛けた。
その後、叶はこころもち俯きながらフラフラと部屋を出て行った。麻衣は、この先、もう叶に会うことはないだろうと確信した。
時計を見た。午後11時30分である。
麻衣の腕には縛られた跡がくっきりと残っている。麻衣はベッドを下りた。腿の付け根が痛む。
麻衣の中では、すでに悲痛さも悔恨も怒りも昇華されていた、それらの感情を許容する余裕は無かった。彼女の世界はひたすら喪失感に支配されていた。
「なりゆきで生きて来た私の人生なんて、しょせんはこんなものなのかもしれない」
麻衣の身体は脱力状態にあったが、足だけは不思議と地に立っていた。