「恥をかける社会」ばんざい! ~家庭訪問の簡素化は正しいか
学校教師の家庭訪問という文化が、危機に瀕していると聞く。
事前にアンケートをとり、「やる」「やらない」「玄関で5分程度やる」の中から選ばせたり、クラス替えのあった学年でのみ行ったりと、要するに縮小・簡素化の方向にあるという。
家の中を見られるのが恥ずかしいのか、他人を家に上げるリスクをきらったものか、それは分からない。
だが少なくとも、昔とちがって、必ずどの家庭にも担任が上がりこんで話し込むという常識は、とうに失われたようである。
※
そこで。
この機会にすんどめは、自分の子供のころの「家庭訪問の思い出」を振り返ってみた。
いま思えば、家庭訪問は本当に楽しかった!
すんどめは家庭訪問が大好きだった。
小4のときのすんどめの担任は、自分が運転するパジェロに、その日訪問する子供を全員乗せ、順番に送り届けながら家庭訪問をしたものだった。
パジェロだから、小4のジャリ程度なら8人くらい余裕で乗せられるのである。
われわれも、パジェロに乗って遠足気分。
「今日は歩かないで帰れる! やったぜワオーッ」
大はしゃぎであった。
◇
なお、その担任はパジェロ中沢(仮名)と呼ばれていた。
思えば、車に由来する教師のあだ名はあの頃、多かった。
教頭はチェイサーに乗っていたが、
「パラヒレパラヒレ!」
という、暴走族ばりのクラクションを鳴らして学校へ来たため、彼の車は「パラヒレ・チェイサー」、彼自身は「パラヒレ教頭」と呼ばれていた。
◇
パジェロ中沢のパジェロに乗り込んだわれわれは、家庭訪問の間、車の中で待っている。
閉鎖空間でくっちゃべっていれば、嫌でも盛り上がろうというもの。
ゲラゲラ笑ってお腹がペコペコである。
だが、家庭訪問が1件終わるごとに、当然だが、車内の人数は減っていく。
すんどめは、その日の訪問のいちばん最後であった。
自分の1件前の女の子の訪問中、すんどめはついに小便を我慢できなくなり、その女の子の家でトイレを借りて、そのまま彼女の家庭訪問に参加。
すなわち、彼女の両親がパジェロ中沢とさしむかえになっているソファにすんどめも座りこみ、
「そうですよねーお父さん」
「ほらね先生。すんどめ君もこう言ってますけどね」
「だから先生。もっとお父さんの声に耳を傾けてあげて下さいよ」
会話に参加したものだった。
※
いっぽう妹の担任であったマッキー氏(仮名)は、免許を持っていないため、奥さんに運転手を頼む人だった。
すんどめは、この先生が大好きであった。
というのもこのマッキー教諭、小学生相手に1コマ90分の講義を行う。
チャイムなんておかまいなしである。
あまつさえ、1日中国語をやったときもある。
生徒にしてみればいじめである。
かと思えば、給食を食った後にとつぜん、
「今日はめんどくせえな。よし、お前ら帰れ! 午後はなし!」
などと言い放ち、勝手に生徒を帰す日もあった。一転、ヒーローである。
歴史の授業の1回目は、野尻湖のナウマンゾウからではなく、宇宙の誕生ビッグ・バンから始める。
相手は小6である。
ビッグ・バンからネアンデルタール人ぐらいまでの、気も遠くなるような歴史の深遠を、無言でカッ、カッ、カッ……と黒板に書いていく。
子供たちはヘトヘトになりながらノートにうつす。
永遠とも思えるその旅の間、教室を完全な静寂が支配する。
教師は一度も資料を見ず、ただ黙々と書くのである。
結局、ノート6ページ分ぐらいにおよぶ長大な内容だったが、彼の頭にはすべて入っていた。また彼は、給食を食いながら、とつぜん旧約聖書の内容を語り始める。
それも、
「主は光あれと言われた。すると光がさした。主はそれをよしとした」
たいへん詳細なのである。
むろん、すべてをそらんじている。
授業中エッチな話は当たり前だし、カップ・ラーメンには野菜を入れて食べた方がいいというアドバイス、『木枯らし紋次郎』が間引きで殺されそうになった話題から、
「先生はコーヒーから生まれて原料がタバコです」
などという訳のわからぬ発言まで、なんでもありである。
運動会の練習では、
「騎馬戦てのはそんなにお上品なものじゃないんです。ケガをしてなんぼです。骨が折れたらセメダインでくっつければいいんです」
子供相手に荒っぽい訓辞を垂れ、習字の時間などは、
「字には『形象力』というものが必要です。マル字がなぜいけないかというと、形象力がないからです。かわいいという以外にないでしょ」
大変難しいことをおっしゃる。
すんどめがこれまでの人生で「形象力」という言葉を聞いたのは、後にも先にもこのときだけであった。
あまりのことに、ついにあるとき、パラヒレ教頭が言った。
「マッキーさんの授業は、あれは授業って言うのかい。あんな難しいことを言ったら生徒、わかんないんじゃないの」
すると彼は平然と、
「授業ってのは分からなくていいんです。感じられればそれでいいんです」
※
とまあ、なにしろこういう教師であったから、生徒はクタクタ。
PTAからの評判も悪かった。
が、一度も担任されていないすんどめにとっては面白すぎた。
担任されている奴らがうらやましかった。
だからこの教師が妹の担任になったときは、
「マッちゃんがうちに家庭訪問に来る!」
楽しみでたまらず、当日が待ち遠しかったのである。
※
さてこのマッキー教諭、実は、わが兄・だしぬけパターソンの同級生・ヨシキさん(仮名)の父親でもあった。
田舎だから、こういうことは珍しくない。
すんどめもヨシキさんのことは、将棋クラブの先輩でもあって、よく知っていた。
だいたいこのマッキー教諭、性教育の時間などには、
「うちの2番目の息子のおちんちんの皮がむけたむけたって大騒ぎになったのは、あれはたしか……」
先輩を例にあげるため、先輩が大変かわいそうであった。
※
マッキー教諭の家庭訪問の当日がやってきた。
当の妹がどっかへ遊びに行っている中、すんどめはワクワク・ソワソワしながら出迎えた。マッキーはすんどめを見て、
「ああ、こないだ君が書いた卒業文集の作文、読んだけどねえ」
「読んでくれましたか!」
「僕に言わせれば、まだちょっと勉強が足りないと思うね。もっとたくさん本を読まなければいけないねえ」
「はっ、お教えありがとうございます! 」
いったいだれの家庭訪問なのか、分からないのである。
ところがそこへ突然、玄関に人の気配がして、兄・だしぬけパターソンの大声が、
「お母さん。ヨシキのおばちゃん来てるでー」(なぜか関西弁)
すんどめも母もずっこけたが、マッキー教諭はきわめて冷静に、
「ああそうね。そろそろ帰りますハイハイ」
兄は部屋へ入ってくるなり真っ青になり、次いで真っ赤になって、
「あっ!! す、すみません先生でしたか! 奥さんつかまえて『ヨシキのおばちゃん』なんて言ってしまいました! しかも思いっきり『来てるでー』とか、謎の関西弁で言ってしまいました!」
シドロモドロになるのであった。
◇
その日、兄はいつものように帰ってきてみると、家の前に車が停まっていて、運転席には「ヨシキのおばちゃん」が座っていた。
ヨシキのおじちゃんが妹の担任であることはむろん知っていたが、兄にとって「ヨシキのおばちゃん」はあくまでも「ヨシキのおばちゃん」であって、妹の先生の奥様などでは断じてない。
おじちゃんがいたのならまだしも、おばちゃんであったから、玄関に入りしな、ごくごくふつうに、
「お母さん。ヨシキのおばちゃん来てるでー」
と叫んでしまったのであった。
なにが赤っ恥と言って、これほどの赤っ恥があろうか。
※
だが、このように、みんなでちょっとずつ恥をかきあうのって、とても大切なことなのではないだろうか。
そう。
家庭訪問とは、教師と家庭とが、たがいの裸を見せあい、ちょっとずつ恥をかきあう貴重な場だと思うのだ。
恥ずかしさを共有しあうことで、連帯感も信頼感も生まれようというものである。
余所行きのかっこうでは、真に信頼しあう関係は築けない。
やはり裸を見せ合わなければ。
その意味では、運動会も恥をかきあう大切なイベントだ。
開会式の時点で、すでに酔っぱらっているお父さんたち。
自分の息子の競技など見ちゃいない。
ガッハッハと大声をグラウンド中に響かせる。
そのくせ、息子の同級生で近所に住む女の子が出場すると、とつぜん熱心に応援を始める。
「マチコ頑張れーっ! マチコ走れーっ! マチコ大丈夫かーっ!」
赤ら顔のPTA会長は、ふりそぼる雨の中、開会式のあいさつでいきなり歌いだす。
雨がぴちゃぴちゃ のきの下
窓にゃおおきな 杉のかげ
やだな いやだな お留守番
おみやげ無けりゃ なおやだな
彼の息子は応援団員で、旗を持って全校生徒の前に立っているのだが、父親のとつぜんの暴挙に、恥ずかしさのあまり泣きそうな顔を下へ向ける。
これだ。
これこそ真の運動会の姿というものだ。
自分の子供の競技だけをビデオに撮って、あとは見ないで帰るなどは、それこそ本当に恥ずかしい行為であった。
自分の子供さえよければいい、という考えは恥ずかしいものとされていた。
家庭訪問も同じである。
散らかっている我が家を見られることが恥ずかしいのか。
それとも、せっかく訪ねてきてくれた先生を玄関から上げもせず、5分で帰してしまうことが恥ずかしいのか。
いずれにせよ、セキュリティ等の問題から「恥のひとつも安心してかけない」社会になってしまったら、それは本当に恥ずかしい社会であり国家では、ないだろうか。
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