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漫画みたいな毎日。「冷蔵庫には、詰め込みすぎないのが、いい感じ。」
皆さんは、冷蔵庫にどれくらいの食品をストックしているだろうか。
食材自体を、ストックしている
作り置きしたものを、ストックしている
冷凍品として、ストックしている
加工品を、ストックしている
保存の方法にも色々あるだろう。
そして、冷蔵庫は、常に改良され続けている。鮮度保持力、収納のしやすさ、使いやすさ、静音性、冷却力・・・。
しかし、ここで、これから書こうと思っているのは、冷蔵庫における食品保存方法の有益な情報ではない。
冷蔵庫内の状態に自分は何を感じているのか、ということについて書いていきたいと思っている。
私は、冷蔵庫に物が詰め込まれているのが、あまり好きではない。
むしろ、「なんだか、なんにもないなぁ~」というくらい、空いている状態が好みである。どうして、私は、その状態が好ましいと思うのだろう、と改めて考えてみた。
・空いている冷蔵庫は、奥まで見通しが良い。
・使うべき材料が、埋もれない。
・食材を使い切れる。
・そこにあるもので、何が出来るかを組み立てる面白さがある。
逆に、ぎゅうぎゅう詰めの冷蔵庫の何が苦手なのだろうか、とも考えてみた。
・冷蔵庫の奥がよく見えなくなる。
・食材が埋もれて忘れてしまうことがある。
・あるものを把握する為に脳内メモリーを使わなくてはならない。
・忘れない為のメモを冷蔵庫にたくさん貼りたくない。
そして何より
「食材が傷む前に使わなくては!!!!!」という気負いが苦手である。
自由にやりたい。
その日に冷蔵庫にあるもので、
その日の体調や気分で、
その日に食べたいものを作りたい。
結局、好きなようにしたいのだ。
何かに追われたり、
プレッシャーを感じず、
自分のペースでやりたい。
そして、「なんだかなんにもない」状態から、美味しいものを生み出す喜び。小さな達成感かもしれないが、この感じが好きなのだ。
そのような物凄く個人的な好みにより、我が家の冷蔵庫は、比較的空き気味である。
冷蔵庫と言えば、長男が、時々、冷蔵庫を覗き、「これしかないの?」「もうないの?」「なんにもないな。」などと言うことがある。
私の受け取り方にも問題があるのだろうが、私にとっては、地雷ワードである。
子どもたちの口から、これらの言葉が発せられると、いつかパートナーができた場合には、言わないように!と、延々と語ってしまう。
単に、「ああ、もうこれで終わりか」と好きな食材や品目がないことを残念に思っているのだとしたら、「あのおかず好きなんだよね~!もうないなんて残念!」まで言わなければ、誤解を生むのだよ!君たち!踏んだ地雷についてず~っと言われ続ける覚悟はあるのかね?!と、子どもたちに、しつこいくらいに、口うるさく言ってしまうのだ。
ここまで読んで、「それくらいで?いくらなんでも、大袈裟じゃない~?!」と思った男性の方々にお知らせしておきたい。
夫が訪問治療に伺っている80代以上の女性たちは、何度も、繰り返し、自分の夫たちの失言を昨日の事のように語るのだそうだ。もう夫が亡くなって何十年もたっていても、だ。
夫は、それを目の当たりにしているので、「他人事とは思えないよ・・・。」と、恐れている。私の脳内フォルダはそれなりにしっかりしたメモリー機能が備わっていることを実感しているので、それはもう他人事とは思えないことであろう。フッフッフッ。
「これしかないの?」
この言葉は、それなりの覚悟がある場合にのみ、発してもよい言葉だと私は認識している。もしくは、平野レミさんのようなステキな能天気さを持ち合わせたパートナーと巡り合うしかない。レミさんであれば、「あはは!そうなの!なんにもないの~!!!」と笑って終わらせてくれるだろう。
なんにしても、家庭内で、冷蔵庫内を把握している立場の人に冷蔵庫の中身に関して、余計なことを言わないのが吉。
そこには、冷蔵庫という名の「私」が存在しているのだから。
食材を詰め込み過ぎた冷蔵庫の放つ〈作らねばならない〉から開放され、
その時にある食材で、
その時に食べたいと感じるものを作り、
好きな人たちと一緒に食べたい。
我が家の冷蔵庫には、そんな自由を求める「私」が存在しているようである。
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