どんなにちいさなことがらも、〈させること〉は、できない。
新学期早々にコロナウイルスの影響で学校が休校になったときのこと。長男の担任は転勤してきた方で、あまり顔をあわせることもないまま、休校となっていた。
毎週、木曜・金曜に長男、二男それぞれに担任から電話がかかってくる。健康面・生活状況の確認のためだ。先生方は休校中でも、様々な業務に追われているであろうに、ひとりひとりに電話をするというのは、大変なことだと思う。
その金曜日、長男の担任から電話があり、長男と一通り話し終えた後、「先生がお母さんに変わってだって。」と電話を替わる。
先生は、「ひとつお聞きしたいことがあるんですけど・・・」と話をはじめた。担任の先生には子ども4人いて、そのうち一人が男の子、小学2年生なのだそうだ。
「コロナウイルスで休校になり、我が家の2年生の男の子に家庭で勉強させるのが難しいなと感じていますが、柳田さんのお宅ではどのように勉強に取り組ませていますか?」と。
え~と。
「させていません。」
「????」
「勉強させていません。」
先生の頭の中は〈???〉な感じだったかもしれない。どう伝えるのいいだろうか、と一瞬考えはしたものの、結局はそのままを伝えるしかないので、話しを続けた。
「我が家では、勉強でも家のことでも、基本的に何かを私たち大人が子どもたちに〈させる〉ことはありません。自分でやりたいと思ってするもの、だと思っているので。本人の性格からしても、させようとすればするほど、しないでしょうし、せられたとしたら、学びがつまらないものになってしまうと考えていますので。本人がやりたい、わからなくて困ったから知りたいということであれば、最大限サポートする、という風に考えています。」
学校には、カリキュラムがあり、学年ごとに「やらねばならない」課題が決まっている。先生たちはそれを年度内にこなさなければならない現状だということ、ひとりひとりのペースに合わせることは難しことも認識していると伝えた。
「彼が5年生までに習得しておくべきと学校では考えられている事を『今現在、習得していない』としても、それは特に問題ではないと、我が家では考えています。」とも。
先生の質問の真意はわかならい。
我が家の学校に対するスタンスが知りたかったのか、勉強を家庭でどのように進めているのかを、知りたかったのか。
今の学校の在り方をどうこういうつもりはない。先生たちも「評価される立場」として組織の中で仕事をしている状況での大変さがある。自分自身もそのような組織に身を置いていた時期があるので、想像することはできる。
ただ、自分以外の人に何かを〈させること〉など、何事においても、できないと思っているだけなのだ。
それが、どんなに小さなことがらであっても。
誰に対しても、どんなに小さな人に対してであっても。
相手が産まれたばかりの赤ちゃんであっても、おっぱいを無理に飲ませることはできない。飲みたいから、飲むのだ。
3歳の娘の靴下ひとつであっても、私が選び履かせることはできない。
「そうしたい」「やりたい」「やってみよう」「やる」と自分で決意することでのみ、人は動くのだと思う。
「やりたくない」「ちょっと苦手」と感じている事も、自分で「チャレンジしてみよう」と思えばやる。
「好きなことだけやっていて、大丈夫なのか?」
「嫌なことも我慢してやらないと、ワガママになるのではないか?」
「辛抱できない子どもになるのではないか?」
このように言われることも多いが、それは、大人自身の不安を増やさないための思い込みであり、大人にとって都合がよいからだと思っている。
まいにち、まいにち、子どもたちは自ら、ささやかなことから、大きなことまで、〈やる・やらない〉を選択し、暮らしている。
自分で、選び取っているのだ。
そのタイミングが、ひとりひとり違うというだけだろう。
自分が大人としてできることは、それを邪魔せず、必要なタイミングで「私にできることがあれば、いつでも手伝うよ」というスタンスでいることくらいだと思っている。
学ぶということ、知るということは、世界が少しづつ広がりをみせ、点が線になることを経験することだと思う。
経験した点が点のまま、〈それぞれの引き出し〉にしまわれた状態がつづくこともある。
そして、それらは、〈それぞれの引き出し〉から然るべきタイミングで出し入れされるのだ。それはもう、絶妙!としかいいようのないタイミングで。
おそらく、人が生きている間は学びは続いていく。ずっと形を変えながら続いていく。
学びにおいても、日常においても、私達は特に、「やりたい」ということに重きを置きがちだ。そのような教育を受けてきているから、とも言えると思う。
でも、「今はやらない」「やりたくない」ということも、「やりたい」と同じくらい丁寧にすくいあげていきたい。「やりたくないことをやらない」ということには、なんらかの理由があり、強い意志がそこに存在しているはずだから。「やりたい」と「やりたくない」は、全く違うようにみえて、どこかでつながっている気がする。
そして、ひとりひとりの時はいつか満ちるのだ。月が満ちるように。