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漫画みたいな毎日。「誰かの子育てを見守る側になった時に。〈なんも、なんも。〉の魔法。」
子どもと行動を共にする時、大人だけで行動する時よりも気を使う場面は増えると思います。
バスの中でも、
スーパーの中でも、
温泉でも、
ただ道を歩いているだけでも。
子どもの安全を守る意味で気を使うことは言うまでもなく、それに加えて、周囲の人に気を使うことが増えたと子どもたちとの生活の中で感じています。
自分がまだ子どもたちが居ない生活をしていたころ。子連れのお母さんたちが、「スミマセン!」と公共の場で謝っている姿をよく見かけました。私からみたら、然程、迷惑だとは感じられないことでも、謝っていて、大変だなと思った記憶があります。今の社会で、子ども連れで行動することは、謝らなくては、所在ない気持ちになってしまうくらい、なんとなく肩身が狭いものなのかもしれない。
当時は、今よりも交通機関のバリアフリーの設備も整っておらず、大荷物を持ち、さらに、決して軽いとは言えない体重の子どもを乗せたベビーカーを持ち上げ、階段で登り降りに奮闘するお母さんたちを見かけることが多々ありました。「お手伝いできること、ありますか?」と子連れのお母さんベビーカーや荷物を持つ。ささやかですが、大変そうなお母さんたちをちょっとでも手伝えたら。そんな気持ちでした。
月日が流れ、私も、子どもと暮らす側の立場となりました。そして、子どもと行動を共にしているからこそ、出会う出来事が、私の暮らしの真ん中となっています。
その暮らし真ん中で、子どもと行動をしているからこそ起きた事をいくつか挙げていこうと思います。
末娘とスーパーに行った時のこと。末娘がショッピングカートを押したいと主張し、私がガイドしつつ押していましたが、うまく操作できない末娘のショッピングカートが、通路を塞いでしまいました。
そのタイミングで向こう側から来た年配の女性が通れなくなってしまったので、「道を塞いでしまって、スミマセン!」と私が言ったら、その女性は、「お子さんがいるんだから、そういうことは当然あるわよ。大丈夫よ。」と優しく微笑んで、カートを避けてくださったのです。あぁ、素敵だなぁ・・・この方はどんな風に子育てしてきたのだろう?もし、子育てに関わっていないとして、どのような環境で育ってきたのだろう?とカートを押しながら、スーパーでの買い物を続けました。
この一年くらいで、我が家の子どもたちはプールで泳ぐことに随分慣れ、プールに行くことは、日常に組み込まれつつあります。
プールは午前の部の閉館間近で比較的空いていました。子どもたちは、誰も居ない自由遊泳コースを気ままに泳いでいます。
末娘は浮き輪使用が可能なコースで泳ぐ、というか、浮かんでバタ足したり、回ったりして楽しんでいるのですが、バタ足するとかなりの水しぶきがあがります。兄二人も、泳ぐだけでなく、水を掛け合ってじゃれ合うこともあります。プールだから、ある程度の水しぶきがあがるのは、当然と言えないこともないですが、それを不快に思う人もいるだろうとも思うのです。
私は、子どもたちに「他にも泳いでいる人がいるからね、」と声を掛けます。そして、傍にいる方に、「水しぶきがすごくて、スミマセン。」と声を掛ける。お互いにできるだけ、快適に過ごしたいからです。
この日も、末娘は元気よくバタ足しており、隣のコースの年配の男性に勢い良く水しぶきが飛んで行きました。
「スミマセン!水しぶきがすごくて!」と声を掛けると、その男性は、ちょっと耳が遠かったようで、「え?」と聞き返してこられたので、もう少し傍にいって、「スミマセン、子どものあげる水しぶきが飛んでしまっているので。」と言ったら、男性は、「いや~なんもだよ。」と言って笑っていました。さらに、その隣のコースの年配の女性もお知り合いだったらしく、「そのくらい元気でないとね!もっと、じゃんじゃん、水しぶきあげなさい!」とケラケラと笑っていました。「ありがとうございます。」とお礼を伝え、その方々が受け入れてくださったことで、私と末娘は、引き続き、楽しいプールでの時間へと戻ることができたのでした。
ちなみに、〈なんも〉は、「大丈夫だよ」「どういたしまして」「いいから気にしないで」などにあたる北海道の方言です。「なんも、なんも。」「なんもだよ~。」と言われると、ほっこりします。
そして、先日、水族館を訪れた時には、この様な出来事がありました。
子どもたちとペンギンのショーを観るために、ひな壇になっているステージ向かいの階段に皆でたち並び、ショーの始まりを待っていました。
子どもたちは背が低い為、前の列に大人が並ぶと前がまったく見えなくなることもあります。できるだけ、子どもたちが見えそうな場所を選んで並んでいると、私達の前列の若い女性が、二男と末娘の視界を空け、立ち止まってくださったのです。
女性と一緒に来ていた男性は、ちょっと不思議そうにしていましたが、「なんで詰めないの?」と尋ねることもなく、そのままショーが始まりました。
子どもたちは、視界良好、ゆっくりとペンギンのショーを観ることが出来ました。10分ほどのショーを終え、次はトドのショーだとアナウンスがあり、お客さんは、トドの獣舎へと移動して行きます。
そのタイミングで、私は、その女性に「子どもたちが見えるように、空けてくださって、ありがとうございました。」と伝えました。女性はマスク越しではありましたが、微笑んでいることがわかりました。
その女性は、私が見かけたところでは、ご自身にお子さんがいらっしゃる様子ではありませんでしたが、そのような配慮を咄嗟にできるということに、驚きましたし、心を配っていただいたことがとても嬉しかった。きっと普段から細やかで、様々な配慮をされている方なのだろうと思いました。
自分が子どもたちと行動する中で、「子どもが居るから」と萎縮する必要はないと思いますが、お互いに気持ちよく過ごせる配慮はしていこうと思うのです。きっと、私が若い頃に見かけた、「スミマセン!」と謝っていたお母さんたちも、そんな気持ちからの〈スミマセン〉だったのだろうな、と今は思います。
親である私が〈スミマセン〉や〈ありがとうございます〉と声を掛けることで、子どもたちの行動が、周囲の方々に受け入れられやすくなることも、この12年で感じて来ました。
「ありがとうございます。」と「スミマセン。」
親が子どもと過ごす社会生活において、「ありがとうございます。」「スミマセン。」と、その言葉を周囲に伝えることで、コミュニケーションの潤滑油となり、子どもたちを守れることがあると実感してきました。
そう思っていなくても、「ありがとう」とか「ごめんなさい」と言えばいいとは決して思っていません。子どもたちにも、「そう思っていないんだったら、言わなくていいよ。」と言っています。子どもたちがそう思っておらず、言わなくても、私が必要であると思えば、代わりにお礼をいったり、謝罪することができるから。
しかし、今日、ここに書いた3つの出来事は、私が伝えた潤滑油としての「ありがとうございます」や、こどもたちを守るための「スミマセン」を越え、周囲の方々の「子どもたちを見守る心遣い」によって、あたたかい気持ちを受け取らせていただけたのだと思います。
そして、自分もこんな風に、誰かの子育てを見守っていきたい。
いつでも、そこに在るであろう子どもたちの育ちを、やわらかな気持ちで見守っていきたい。
数十年後には、様々な場面で出会うであろう子どもたちを眺めながら、
「なんも、なんも。」「なんもだよ~。」
そう言って、ニコニコ笑うおばあちゃんになりたいと思うのです。
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