学校にいかないという選択。その2。学校に行くのは誰か。
学校に行かないことで、見えてくる景色がある。
学校に通うことでしか見えない景色もある。
ずっと顔を合わせていなかった、同じ幼稚園のお母さんとメールのやりとりをしたことがあった。
「小学校6年生の娘が、年末位から、学校に行きたがらない。家からも出たがらない。外出に誘っても行きたがらない。こんなことで、春から中学にいけるのかと、心配。やなぎださんは、学校に行かないでどうやって過ごしていますか。何か家での過ごし方にオススメとかありますか。」
そのメールを読んで、思ったことは、「で、〇〇ちゃんは、どうしたいんだろう?」だった。それしか出てこなかった。
お母さんは学校に行かないことが不安、というのはわかった。じゃあ、その子はどうなんだろう?学校に行きたくない、もしくは行けない、何らかの理由があるのかもしれなし、なんとなくそういう感じなのかもしれない。春から中学に行くか、行かないかを決めるのは、その子自身だと私は思う。学校に行くのは、親ではないのだ。そもそも、行くか行かないか、今は、わからないことであり、その時に子どもが考えて決めればいいと思うのだ。先のことを心配するよりも、目の前に起きてることを見つめる方が先だ。
毎日、朝起きて、決まったルーティーンをこなし、学校に行き、授業を受け、友人たちとの関係に心を砕くのかもしれない。学校が終われば習い事に行くのかもしれないし、部活に行くのかもしれない。帰宅したら、ほっとする間もなく、夕飯やお風呂を済ませ、明日の学校に向けて宿題などするのかもしれない。
考えただけでも、大変なことだ。今の自分にはとうていできないと思う。
「〇〇ちゃんは、どうしたいのだろうね?今、何を感じているのだろうね?」と返信した。「ずっと学校に休みなく通って、ちょっと休息が必要なのかもしれないし、親として、その姿を見守るのはしんどいかもしれないけれど、そういう時間も大事かもしれないね。」
青虫が蝶になる時、蛹の時期を過ごす。じっと黙って時を過ごす。誰かと話しをする事も、会うこともない。外から無理に引っ張り出そうとすれば、蝶になれないのは勿論、命を失うのだ。そのメールを読みながら、そんな青虫のことを思い浮かべていた。
子どもが学校に行かないことで、「私は、あなたのことが心配なの。」と親は言うだろう。心配なのは本当だろう。でも、実際は、「あなたが学校に行っていない状態は、私が不安なの。」ではないかとも思える。それはそれで、良し悪しではないと思う。それを自覚していれば、子どもの負担感は少ないのではないだろうか。
学校に行かないことで、親戚や近所の人にいろいろ言われるという話もよく耳にする。その相手が夫であることもあるかもしれない。子どもが学校に行かないのは、親(特に母親)の責任だ、と言われることもあるだろう。そう行った周囲の視線や発言が学校に行かない子どものいる家庭を苦しくさせているのだと思う。
しかし、学校に行くのは、親ではない。夫でも親戚でも近所の人たちでもない。子どもたちだ。
友人が職場で行われる子ども談義について話してくれたことがあった。「中学の内申がなくなるってどう思います?」とか、「うちの子、検査技師に向いてると思うから、その方面に進めるように導いてあげようとおもって!」とか、いった話が繰り広げられるそうだ。子ども不在での子どもの将来が語られることに驚く。
子どもの時間は、子ども自身のものだ。
子どもの未来も子ども自身のものだ。親のものではない。
学校に行くことも、行かないことも、その他の多くの事柄も、本来ならば決めるのは子どもたち自身だ。そして、そのことによって起きる出来事も少なからず自身で引き受けていくことになる。そして、どんなに苦しい状況の時も、子どもを盾にしてはならないと思っている。盾になるのは私の役目だ。そんなときこそ、出番なのだ。
親は、「助けて」「手伝って」と言われた時には、手を差し伸べ、盾になることができるよう、いつでも心しておくだけでいいのだと思う。
あとは、青虫が自分の力で、自分のタイミングで、蛹から出てくるその時を待つだけでいいのだと思っている。