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いちご狩りで考えた。「なんにもない」の魅力と「お客様は神様なのか」という疑問。

「なんにもない」の魅力。

昨日の札幌は晴天。子どもたちが待望のいちご狩りに出掛けた。自宅から車で20分ほど行くと、山に囲まれた果樹園がある。

その果樹園のオーナーは3年程前に新規就農された、さいたま県の出身の方。我が家はこちらの果樹園にいちご狩り、りんご狩り、さつまいも掘り、と季節に応じて訪れ、広い敷地で遊ばせていただいている。ちなみにさくらんぼ狩りもできる。

オーナーは果樹が好きで、「たくさんの人に来てもらいたい」から、「果物狩り」ができる果樹を選び、果樹園をやることにしたのだそうだ。

なんて素敵なのだろう!と、淡々と静かにその気持を語るオーナーに、私たち家族は好意を感じている。決して熱く語るのではないのだけれど、淡々と自分のやりたいことを続ける姿勢は、素晴らしいといつも思う。子どもたちに対しても、とてもフラットに関わってくれているので、親近感を覚えているようだ。

果樹園から川原にも出ることができ、そこまでの道のりも遊歩道として、楽しめるようにと草刈りをして整備してくれている。りんご畑のまわりも、歩くのに不便ないよう、でも自然の豊かさを壊さない加減で整備がされている。その加減もきっと難しいと思う。

いちご畑の近くには、大きな桑の樹が何本もあり、我が家の子どもたちは、いちごそっちのけで、桑の実を食べていたこともあった。

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川にどんどこ入って、流されるんじゃないか?!と思うくらいびしょ濡れになってあそんだこともあった。

我が家の子どもたちにとっては、「自然がいっぱい、人工的なものがない場所」はパラダイスなのだ。

松ぼっくりと虫あみで、キャッチボールかと思えば、「弟の虫採りの訓練してるんだよ!」だとか、茂る背の高い草の中でかくれんぼだとか、追いかけっこだとか、草で造形だとか、遊びは次々に生み出され、飽きることなく続いていく。

川に行けば、石拾いから始まり、石投げ、川に入る・・・濡れて寒くなるまで続く。

一方、魅力的に見える固定遊具の溢れる公園に行くと、初めは物珍しさから、「わ~い!!!」と遊ぶのだが、「なんかつまんな~い」となるのは時間の問題なのだ。

固定遊具でも、決まった遊び方以外に工夫を凝らすのだが、なぜか、盛り上がりに欠ける。そして、「なんにもない場所のが楽しい。」と口々に言うのだ。

なぜかなぁ・・・と子どもたちの様子を見ながらいつも考える。

「人為」や「人意」が働いていると、どこかしら含まれている、ある程度の制限がそこに発生し、こどもたちの遊びの展開、遊びを創り出すことを多少なりとも妨げているのかもしれないと私には感じられる。

「なんにもない」ということは、むしろ、子どもたちの創造性を邪魔しないのではないか。「なんにもない」とはいっても、そこには、「自然」という最大の「遊びのヒント」があり、それこそが、子どもたちの創造を掻き立てているように見えるのだ。

そんな子どもたちにとって、この果樹園は、格好の遊び場なのだ。

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お客様は神様なのか?

いちご狩りの受付をする時に、「コロナ対策でいちごのヘタのお持ち帰りをお願いしています。」という説明を伺った。ヘタを入れるビニールが用意されていて、いちごについた砂を洗う為の水を入れる紙コップも用意されていた。

この状況下でも、いちご狩りをやるためにオーナーも色々対策を考えて、工夫している。「対策も大変ですよね。でも、こうしていちご狩りをさせてもらえるのは、とてもありがたいです。」と言うと、オーナーは、「対策したら、対策したで、また色々言われることもあるんですけどねぇ・・・」と苦笑いしている。

ヘタをわざわざもって帰る必要があるのか、と来園したお客さんから、苦情めいたものを寄せられるそうだ。

この果樹園は、都市部から約30分、電車だけではアクセスできない場所である。大半は自家用車、もしくは団体であれば大型バスで乗り付けていることが多いだろう。

いちご狩りの後に街を観光するから、ヘタを持ち歩くのは不都合だという人が沢山いるのかな?と考えてみた。

・・・う~ん、ゴミを車に置いていけば済むことだよなぁ。

・・・そもそも、自分がいちごを食べたことで出たゴミだしねぇ。

私はそんな風に考えるけれど、どうやらそうは思わないケースがあるというわけだ。

世界は、様々な考え方・感じ方に溢れている。

「お金を払って、わざわざいちご狩りに来てあげている。私たちはお客様。」

オーナーに寄せられる様々な意見を聞いていると、来園者の意識が見え隠れしている気がした。

他にも

「ここは、なんにもないのね。」

「ベンチはないの?」

とも言われるとか・・・

果樹があるじゃないっすか!

しかも美味しいのがたっくさん。

ベンチ・・・ベンチね。

長い石があって、上に屋根がついてる場所ではダメってことなのね。

我が家は、私がレジャーシートを積み忘れ、草の上に直座りした。洋服が汚れたら、洗えばそれで済むし、ま、いっか、と思う。

子どもたちには、気休め程度に、ビニール袋をお尻の下に敷いてみたけれど、当然ながら、そこに納まる動きではなく・・・何も無くても同じだった。

お金を遣うことで、想像力も養われる。

コロナウイルスが蔓延したこの状況下、みんな、なにかしら影響を受けている。知らないうちにストレスも溜まっているかもしれない。

でも、こんな時こそ、こんな時だから、想像力を駆使したい。

この状況下でも楽しんでもらえる様に考えている果樹園。

いちご狩りが開催できるようになるまで、春になる前から、苗を育て、畑を耕し、苗を移植する。日々、畑を整え、いちごのお世話をすることも大変だろうなぁ、と、広がるいちご畑を見渡した。

あらゆる事柄について、「自分事である」とか、「お互い様だよね。」ってどこかで、少しでも思うことができたら、ベンチなくても、シートを持参すれば済むし、いちごのヘタのゴミを持ち帰りに協力するのも、大きな問題として捉えずに済む気がする。

確かに、私たちは「お金を支払うお客様」だ。

でも、実際は、お金を支払い、それ以上のものを私たちは、果樹園やそのオーナーから受け取っている。

美味しいイチゴ。

溢れる自然。

穏やかなオーナーの人柄。

そして、ここで過ごす時間。

わくわくすること、好きなことにお金を遣う。

お金を支払う側がエライ、という考えを私は好まない。

お金を支払いたくなることを、創り出し提供してくれている方々にいつもありがたさを感じる。

いちご狩りをしたくても、いちごを育て環境を整えてくれる人が居なければ、私たちはお金をどんなに持っていても、いちごを買うことすら出来ないのだ。

その時、お金は価値を失うのではないだろうか。

お金を遣う時、そのお金を遣う先へ想像を働かせるということは、自分が思っている以上の対価を得られる行為でもあると思う。

お金はツールだ。

私はそのツールを、お互いが幸せに暮らすために遣いたい。

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やなぎだけいこ
学校に行かない選択をしたこどもたちのさらなる選択肢のため&サポートしてくれた方も私たちも、めぐりめぐって、お互いが幸せになる遣い方したいと思います!