漫画みたいな毎日。「放っておいてくれて、ありがとう。」
皆さんは、〈不機嫌な自分〉と、どう付き合っているのだろう。
話を聴いてもらったり、甘いものを食べたり、本を読んだり、ぼんやりしたり、ふて寝をしたり・・・自分の不機嫌を回復するための必殺技を携えている方もいらっしゃるのかもしれない。
私は、不機嫌なとき、とにかく放っておいてもらえることが心地良い。
大抵の場合、少しづつ自分の中で折り合いをつけているからだ。
これは、個人差が大きいのだと思うのだが、不機嫌なとき、なんとなくモヤモヤっとする時、「どうしたの?」と心配されるよりも、そっと放っておいてもらえる方が好みだ、というだけの話である。
人によっては、「どうしたの?」と声を掛けられないと自分の存在が認められていない気がしたり、寂しく思うこともあるのだろう。
これは、本当に個人差なのだと思う。
機嫌が悪くなる時、きっかけは何かしら外部にあったとしても、根本原因は自分の中にある。
だから、その事柄と向かい合うには、私には静かな時間、余白、みたいなものが必要だ。
頭の中で「私は何に引っかかっているんだろう。この感情って私の何処から湧き上がってくるんだ?」と静かに掘り下げる。
その際の感情とは、幼いときの記憶や体験と結びついていることが少なくない。
「あぁ、ここから来ている感情なのか。」
そのような作業を繰り返していると、段々、自分の機嫌は持ち直してくる。
家族はそれを知ってか知らずか、私が機嫌が悪いときも、大体において、そっとしておいてくれる。本当にありがたいことなのだ。
そして、当然ながら、子どもたちの機嫌が悪いこともある。
小さい年齢であると、不快の原因がハッキリしていることも多いが、大きくなると共に、その原因は自分自身でもハッキリしないことがでてくると思う。身体も心もちょっとずつ複雑になっていくのだ。
家の中で誰かが機嫌が悪いことが気にならないといえば嘘になる。
空気が重たく淀むから嫌だなと思う。
しかし、それを「自分のせいでは?」と思わなくなってから、平気とまではいかないが、ずいぶん楽になった。
私の母は、基本的に機嫌が悪くなりやすいタイプの人だ。
寝起きなどは最悪である。ちょっとしたことで、機嫌を損ねると、ずっと機嫌が悪い。おそらく、虚弱体質で低血圧、身体が辛かったことも原因のひとつであったのだろうと、今は理解できる部分もある。
しかし、子どもであった私と姉にとっては、恐怖であった。
私も姉も、「お母さんの機嫌が悪いのは、私のせいでは?」と、意味のない罪悪感を抱いて育った。常に母に気を使っていた。
姉が小学生の時、外出の為に母が着たワンピースの背中のジッパーをあげて欲しいと頼まれた姉が、そのジッパーを壊してしまい、「もう出掛けない!」と激昂し、その日の外出が突如中止になったことがあったそうだ。
・・・違うワンピースを着たらいいじゃない。
今の私なら、そう思うし、そう言うだろう。そもそも、「あら?!私ったら、自分で着られないワンピースを買っちゃった?!痩せなくちゃダメかも?!」という笑い話ではないのか。
今でこそ、〈そりゃないだろ!〉と思えるし、母は〈自分で不機嫌でいることを選択していた〉と思える。
しかし、自分が子どもだった時は、母の不機嫌は恐怖であった。自分の存在を脅かすものだった。親とは、それくらい影響力を持っているのだと思う。
加えて母親は、子どもの不機嫌を許さない人でもあった。
不貞腐れることも、ぐずぐずしたり、泣くことも、怒ることも、抑えることを余儀なくされることが多かった。
そして、思うのだ。
子どものうちに、不貞腐れることも、怒ることも、泣くことも、十分にやったらいいと。
少しつづ、自分にとって心地よいやり方を必ず自分で見つけることができると思うから。
自分の不機嫌と向き合うために、家族が私を「放っておいてくれる時間」とは、「あなたを信頼しているから大丈夫。」という信頼があるからだと思っている。
もちろん、子どもたちの場合には、事柄に依っては放っておかない方がベターなこともある。大人でも、そういう場合も勿論あると思う。常に状況を見極めるしかないだろう。
これは、放任と尊重の違いにも通ずる気がしている。
私がどんなに不機嫌でも、子どもたちは、「お母さん、何かあったのかな?」とは思うかもしれないが、基本的には、「自分のせいで機嫌が悪い」とは思わないだろう。いつも通りに過ごし、そっとしておいてくれる。
日々、色々あるけど、できるだけ、「機嫌の良い母」で居たい。
機嫌を損ねても、できるだけ、短く済ませたい。
「お母さんは、放っておいても大丈夫。」と寄せられる信頼を裏切らないように。
そして、子どもたちの「不機嫌」も、見守りつつ、放っておく余白を残しておきたい。
「不機嫌」を静かに味わうことは、辛くとも、悪いことではないはずだから。