見出し画像

こどもの邪魔をしないこと。

大人たちがよくこどもにする質問の中のひとつに、「大きくなったら何になりたい?」というのがある。

本来であれば、目の前の「今」のことだけを感じていれば十分である子どもたちに、そのような質問は必要なのだろうかとその言葉を耳にするたび、心の中で溜め息をつく。

そんな先のことまで決めていたら、寄り道もできず、窮屈にならないかなかぁ・・・。それを一般的には、「安心」「安定」とかいうのだろうか。大人が子どもの将来を楽しみにしているから出てくる質問なのかもしれないが、選択肢は子供たちが大人になる頃には、もっともっと増えているだろうし、私たち大人の想像の範囲など軽く越えていくだろう。

子どもたちはとても真摯だから、「大きくなったら、何かにならなくてはいけないのか?!」と思って、何になるかを真剣に考え、時には頑張って創り出したりする。

思い返せば、小学生の頃の私がまさしく、そうだった。親戚が顔を合わせる度に「大きくなったらなにになるの?」と聞くので、仕方なく「学校の先生」と答えた。幼稚園の先生になるには、小さい子が苦手だったし、(自分も十分小さかったのだが)なんとなく、なれそうな気がしたし、(何も知らないから、簡単だと思っていた)大人が満足してくれそうな答えだと思っていた。(先生、っていうとだいたい大人はそれ以上は聞かない)そして、「自分は学校の先生になりたいのだ」と思い込んでさえいた。

しかし、大きくなるにつれて、それは自分の考えたこと、本当の気持ちではなかったとわかってくる。あぁ、学校の先生にならなくてよかったと度々思う。誰かに何かを教えることなどできないし、性に合わない。子どもたちにも迷惑になっただろうと思う。

「夢をもたなくては」とか「何かにならなくらはならない」というのは一種の刷り込みだったのだと感じるようになったのは随分大人になってからだ。生きていく中で、何かを成すことだけが目的ではないし、自分以外の何かになろうとしなくてもいいし、なれないのだと思う。

自分の中から湧き上がってくる何かに従って生きていたら、いつの間にか、何かを成していたりすることはあるかもしれない。それは、「何かになること」が目的ではなく、歩いていたらそこに辿り着いていた、という感じかもしれない。

大人が、何気ない、たいしたことはない、と思って気にも留めない一言も、知らないうちに子どもにとっての足枷になる余計な一言は、案外多いかもしれない。需要と供給が噛み合っていない可能性は高い。大人は良かれと思っているだけに、たちが悪いこともたくさんあると思う。

いつも思うのは、大人が子どもたちにできることなど、殆どないということだ。もし、日々、できるとしたら、ご飯をたくさん用意して、家の中をホッとできる場にすることくらいだろうか。そして身体を動かし、よく眠ることができるようにちょっと気にかけることくらいだろうか。

大人になり、親になり、何よりも難しいが、何より気をつけていることは、〈子どもの育ちを邪魔しないこと〉だ。自分のしていることは、「余計なこともしれないな」といつも心や頭の片隅に置いておく。それだけでも、ちょっとは邪魔しないことに役立っていると思う。

邪魔をしないことで、子どもたちが本来持っている、自分で感じ、考え、動き、育っていく力を感じられるのだと思う。

子どもの本来もっている、育つ力を邪魔しない。

それが私にできることだ。


学校に行かない選択をしたこどもたちのさらなる選択肢のため&サポートしてくれた方も私たちも、めぐりめぐって、お互いが幸せになる遣い方したいと思います!