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繊細な私たちの繊細な写真たち

すっかり冬ですね。本当に苦手な季節です。
困りました。

この1年近くXやnoteを見てきて改めて思うのですが、ポートレートや風景写真など、いくつかの撮影対象があるなかでスナップを選び取る人達は、そしてそれを何年も飽きずに続けている人達は、とても繊細な人が多いなと感じています。
そして自分もまた、そうなのでしょう。

風景などのわかりやすい美意識と違い、ゴミでも泥でも心の琴線に触れたものならなんでも撮ってしまう私たち。時折、なんでこんなものを撮っているんだっけ?となりながら、正解のない場所をぐるぐると彷徨って、時には疲れ果てて、でもやっぱり好きだなと思い返して。

ごみ

その行為は結局、自分の心の内側との話し合いというか、探り合いというか。
自分や誰かのそういう局面に遭遇すると、普段は意識しないけれどああ写真は芸術なのだなと再確認します。
本来は文脈的なものがないと芸術とは言えないのかもしれないですが、押せば撮れるだけのものにここまで悩まされ、自分なりの正解を求めて撮り続けることは、まさしく芸術家の姿だなと思うのです。

別に自分と向き合うことが崇高なわけではないですし、悩まずいいものが出来ればそれが一番良いのですが、そうもいかないのが人間らしい。

これはなんでしょうね

特に心が疲れていると写真に蝕まれてしまうのは繊細な人ならではだなと。反して状態が良い時は写真を飲み込む勢いで楽しめるんですよね。自分と写真はいつでも繋がっている気がします。

蝕まれながら生み出したものにも価値があるのかもしれませんが、そういう時代でもない気がするので、写真で心が疲れた時は少し休憩として離れてみるのがやっぱりいいんじゃないかな。

そうしてまた写真を撮ってみたくなればそうすればいいし、新しい趣味を見つけられたら一旦そっちに没頭してみるのもいいと思います。写真を撮らない期間があるともったいないような、多くのものを撮り逃してしまうような焦燥感に駆られることもあるけれど、振り返ればささやかなものです。

これ、初回あたりのnoteでも書いた気がしてきた。
14歳から写真を撮っている私が唯一伝えたいことなのかも。

(見返したらほぼ同じこと言ってた。まあいいか。)

そうやって私は離れたり近付いたりして、結果的に離れる前によりさらに写真を好きになっています。この先もなんだかんだ同じように繰り返して、ずっと写真を好きだと思い続けたいものです。

そんなスタンスで撮ったことがないという方もたくさんいることはわかっているのですけど、思ったより悩みながら撮られてる方が多いのだなという個人的な感想でした。

さて12月はあと何本noteを更新できるかな。

普段はXに写真を投稿しています。


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