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何が許せない?


理不尽なことをされた時、
とても怒りが湧く。
とても悲しい気持ちになる。

人の悪い部分を見ると、
嫌な気持ちになる。
許せない気持ちになる。
正したくなる。
距離を取りたくなる。

なぜ…?

きっと、
自分を守りたくなるのだろう。


その人が憎い?
その人に仕返しをしたい?
その人を負かしたい?
その人を貶めたい?
その人を正したい?

なぜ…?

許せない気持ちになるのは、
自然なことであるけど、

それ以上のことを考えてしまうのは、

なぜ…?


黙っていられなくなる
許せない気持ちは
どこからくるの?


自分の中にある
何に触れたのかな?

自分の中にある
何に刺激されたのかな?


自分の中の
何を許せていないのかな?


ズルをすること?
嘘をつくこと?
不真面目になること?
器用にすること?
上手く逃げていること?


聖人君子になりたいのかな……

卑しさや
汚なさが

我慢ならないのかな…

私は、理解できない相手を
宇宙人くらいにしてしまうから、

刺激はされるも、
それ以上の感情にはならない。


(追記)
でも、不当なものは不当だと、私は伝える。
新たな策を見出していける場であれば、
建設的な対話を行う。


だけど、
SNSやリアルでも、
不快なモノには
とても苦手意識がある。

元々、人の悪口を言っているのを聞くと、
胸やけのような気持ち悪さが起こる。

大きな声や刺々しい物言いはビクっとし、
強い口調が苦手。
怖くて身体がフリーズする。

自分に言われているわけでないのだが、
怖さは恐ろしいというような感覚で、
不快な感情に身体が勝手に反応する。

感覚の反応や、居心地の悪さは、
私自身の問題なので、
SNSの使用やニュース等の情報などは、
自分が行える範囲にしている。




SNSによくある、
興味本位の言動や 承認欲求の言動や
発散のような言動や あれこれとあり、

娯楽やエンタメとして使用するものや、
広告や宣伝として使用するものや、
社会貢献のために使用するものや、
いろいろとあるのだが、

SNSは、特定の人と繋がったり、
不特定多数と繋がっていたり、

個人だけもののようで、
他者や社会と共有している。

境界線が曖昧になりやすい。

見苦しいものでも、
世のため、人のための盾を使い、
自分の正義を行う人もいる。

それを楽しむ人もいる。

私の美学では、
わからないことだらけな世界。

SNSを心地よく行える、
自分の範囲の使用を心掛けている。




私が眺めるSNSの世界は、
そんな世界。

価値観の違う人へ
不快や不満、フラストレーションを、

声を大きくし発する様子も
大衆を味方につける様子も
周りを巻き込もうとする様子も

挑発する様子も
攻撃する様子も
拡散する様子も
見せ物にする様子も

どこか、滑稽に見え、発散に見え、


自分の中の怒りや不満を鎮められない、
自分のための行動のように見えてしまう。


いや、SNSの個人的な使用とは、
そもそも、そういうものなのかもしれない。

ならば、尚更、

どのような場所で
どのような範囲で
言葉にしているのか、

言葉の先に、どのような人にも届くのかと、
想像することが求められるのだろう。


自由は自由なようで
不自由なものでもあることを理解している。

自由を履き違えてしまう人には、
わからないことかもしれないけれど。


自由になればなるほどに、
考えていかなければならないことは増えるもの。

不自由さにいる場合は、考えることはシンプルになる。

自由とは、そういうものだだから、
好き勝手にしていいというものとは違う
ということが、よくわかるだろう。




何が、そんなに刺激されてしまうのだろう?

我慢ならなくなる思いは、自分の中の

どこからくるのだろう?


それが、
客観的に、自己洞察していくと
いうものであると思う。


自分の道徳観というのは、
もちろんあって、

それとは異なる価値観で動く人は、
世の中にたくさんいる。


もし、気に食わない人と出会って、
自分は気に食わないけど、
周りはそうは思っていなくとも、

それは、人それぞれで。

腹も立つ気持ちになるけれど、
自分と相手の関係性!

当人同士の人柄や相性の問題のように思う。


表の顔と裏の顔と
わかる人もいれば、わからない人もいて、
見抜ける人もいれば、見抜けない人もいて、
気づく人もいれば、気づけない人もいる。

相性というものだってあるわけで。


表の顔と裏の顔、
相手の悪いところを知らせたところで、

そうかと動くような人たちというのは、
流されやすい人でもあり、

自分の意見や自分の目というのを
持っていないようにも思う。

多数派や皆と同じに安心する人たちのような。

自分がその人の
どのようなものを見てきたか、
その人との関係に答えはあるのではないかと思う。


知らしめたところで、
その相手との関係を考えていくのは、
その人それぞれなのだから、

外野がどうのこうのとか……
ふ〜っ
おえ〜〜っ
となる。

見たくも聞きたくもなくても、入ってしまえば、
もう刺激されてしまうわけで(笑)

アレルギー反応と同じさ。


もし、悪行や裏の顔があったとして、
その人の違和感や相性に気づいていくのも
その人のタイミングなのだろうし、

その人との関係がどうかというのは、
自分と相手との関係の問題なのだから、

それを敢えて、
晒すとは?
広めるとは?


自分の中の解消かな?
自分の中のものを他者の思いへ投影?

自分たちの考えを正す
大衆を味方につける
相手をやっつける
こんな悪い人がいると晒し者に

いじめと変わらない……

悪いことをしているのは、向こう。
私たちは、むしろいいことをしている。

そんな感覚になるのだろうか……


どこまで、自分のことを
理解して行動しているのかというのも、

それもまた、
その人にしか、わからない。


周りにいる人たちが
なんやかんやと
とやかく言えるものではないのだ。


不必要に巻き込むことは、
混乱と不快を
たくさんの人へ届けているだけのように思う。

メディアも同じ。

それに迎合するような人たちも
そこまでの人であり、

物事を多面的や多角的に考える
数が少ないのかもしれない。

それも価値観だから、
どう言って良いかはわかないけれど……


聴く耳や言い分を聞き入れない雰囲気や
建設的な対話がなされないような雰囲気という
態度の相手には、

手も足も出ないよね。
出したら怪我しそうだし。
事も大きくなるだろうし。

黙るしかできなくなる。

敵対心を感じれば、
建設的でない感じで、話し合うことはできない。

心理的安全性が守られた中でなければ、
話せるような状態とはならないだろうね。


同じ土俵に立てない場合、立ちたくない場合、
立たないようにしている。
相手は宇宙人か何かと思うようにしている。


自分の中に異物が侵入したときは、
異物におえ〜となるので、
おえ〜と心の中で言って、吐き出して、
自分の身体の外へ出す

新鮮な空気のある場所へ行き
美味しい空気を身体の中へ取り込む。

(↑私の対処法)




言えることとすれば、

皆、誰もが、

その一つの出来事だけで、
その人の全てを語れないということだろう


それが、その人の全てを表すものではないし、

そのような要素は持ち合わせている
かもしれないけれど、

また別の一面や、
他の面がいくつもあるということ。


悪いものを見ていくか、
良いものを見ていくか、

捉え方や解釈は多様。


私は、私の見ている目で
感じている感覚で
その人との関係の中で
物事を見ている。


その人を指し示すものなんて、
一つでは語れない。


いくつもあって、たくさんの要素があるのだから。

一つのことだけで
物事を決めてしまわないようにしたい。

子育てと人生と」記事より




気に食わないなら、
関わらなければ良いし。

関わるのであれば、
当人同士で話せばよいこと。

それを表へ出したり
広めたりする必要はない。


気が済まなかったり、
おさまらないものがあるのは、

自分の中の無意識にある、
何かがあるのではないだろうか?

鏡の法則のように……


自分の発する言葉というのは、
自分が自分へ言っている言葉なのだと思う。


そして、これを話している私も、
嫌な思いをしたら、
もっと怒りを本人にぶつけられたらいいのに、
と、心のどこかでそう自分に思っているのかもしれない。

社会的に、それを行いたいとは思ってはいないけどね。
つまり、自分に規制をかけているということ。

自分の中の道徳観や美学があるからね♪


だから、その不快やフラストレーションは、
全く関係のないところや、
信頼できる相手に、
ボヤいたり、ガス抜きしたりするし、

気の合う場所や人と、楽しんだり、
自然など五感を喜ばせる心地よい空間で、
癒したり、

感情の切り替えというのを工夫する。

余計な感情はできるだけ、
ぱっぱっと振り払いたいから♪




わ!3000字超えちゃった〜💦

ちょうど、昨日コメント欄でそんな話をした♪

なんだかnoteも
さとうきび畑のように悲しみや魂が
ざわわとしている。


〜私の発散〜

私の眺める世界の
私の感覚の
私の価値観だらけの話

・・お読みいただきありがとうございます・・







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ゆうゆう yu-yu
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