【二人のアルバム~逢瀬🈡~芳醇~その①~】(フィクション>短編)
§ 1.報せ
彼の父の落着き先が文字通り決定し、父のケアマネや散歩に付き合う隣人が段々良い友人になり、あのタワーマンションに住んでライフスタイルが確定し、一年経つか経たない頃、ゴルフも共に出来る程に父は健康を回復し、友人を持ち、共に散歩したり、彼がプレゼントした小さな飼い犬「タロー」を連れて、施設のご婦人方とも散歩やハイキングにも行った。
今までにも増して穏やかな表情になった彼の父は、ゴルフや長唄を習ったり、引退生活を楽しんで、或る朝、突然、微笑みながら、逝ってしまった。
早朝の鳴音は、いつもなら、切ってある筈だが、突然、夜明けにけたたましく鳴音した。
彼が買った大きなベッドに川の字に並んで寝ていた、猫、寝ていた彼女、滅多に起きない彼さえも、全員、はっと驚く程、音が高かった。
彼女が心臓の高鳴りを抑えながら青い顔で電話に出ようと起きようとして胸の鼓動が激しくて止まってしまった。猫のブルが彼女の横に立って、にゃあ、と比較的大きな声で守護神の呼び声の様に彼の方に向かって鳴いた。心得たかの様に、それまで動かなかった彼がピクッとした。
「おい、お前、起きて電話に出んか」
と猫が彼を睨んでいた。彼は、頷くかの様に飛び起きて彼女を制した。
「好いよ、俺が電話に出る」
とにこっ、と笑って窓辺に駆け寄り電話に出た。
蒼褪めてベッドの淵に腰を下ろした彼女の顔を斜め下から、猫が見張っていたが、彼女がびくんと驚く程、急に、彼女の膝に飛び乗った。
「みゃあ」
と猫がまた今度は優しく鳴きながら、前足の片方で彼女の上腕を優しく触り、
「どうした」
と問いかけるかの如く、前足を使って話しかけるかの様に、また触れた。
彼女は彼をじぃっと見ていた。
彼は窓の方を向いて動きもしなかった。だが後姿が悲嘆を表現した。
何か話しているが、彼女には聴こえない。
「—あなた?」
彼が低音で話をつづけながら右手を後ろ向きに振った。
「いや、何でも—うん。えぇ、えぇ、分かりました。
—じゃ、後で妻と一緒に出ますんで。
—あぁ、はい。有難うございます」
電話を切って暫く彼は外を凝視していた。
夜明けの日光が、カーテンから入り始める時間だった。
—もう朝の5時か。キレイだ…。
よく、早朝の靄の中に陽の光を見つけると、父はそう言ったものだ。
朝靄が引いて、きれいな一筋の日の光が入って、彼は振り向いた。
彼には自分の女神が其処に居て、自分について案じてくれていた。
涙は頬を濡らしていなかったが、瞳がぬれ、瞼が真っ赤だった。
猫がスッとどいて、彼女はやっと立ち上がって彼の近くに行った。彼の背中を撫でてやった。
「どうしたの、お父様?」
彼は頷いた。
「親父、—親父がね、朝ッぱらから散歩の約束をしていたそうなんだ。隣人との散歩の時間にフロントで出て来なかったんで、電話したら、応えないから、コンシェルジュを通して部屋に入ったら、—眠ったままで亡くなってたって」
「まぁ、何て事…」
彼女は、彼の背中から腹辺りに手を廻していたので、横に廻りながら、彼の背を撫でつつ、そのまま抱きしめた。
「お医者様とかは診て下さったの?確か—」
「あぁ、まず看護師が聴診器で確認して、夜間の緊急時の医師を呼び出し、今しがた医師が死亡の確認をして死亡診断にサインしたって。
—看護と介護体制がしっかりしているからあそこを選んだけど、…、なんだか、…早かったな」
彼女の頬に涙が伝った。
「ん…」
彼女は涙が止まらなかった。
彼女は自分の父を亡くし、彼の父は彼女と初めて会ってからと言うもの、それは大切にしてくれた。彼女は彼の父を第二の父として、敬ったし、尊敬していた。愛しい彼と顔がそっくりで、年齢を重ねると彼もこうなるのかな、と思ったりしていた。
温かい父の優しさを思いつつ、彼女は彼の左肩に顔を埋めながら、静寂の中、親を亡くした彼を固く抱いた。
彼は彼女に頭を垂れて、一緒に朝日を浴びた。
車の中で、彼女は彼に懇願して、彼が連絡など取る間、彼女が運転をしたがったが、彼がそれを聴き入れてはくれなかった。運転をするのは彼の仕事だったし、何より彼女の運転は、彼から見ると、彼女には言わなかったが、結構危なっかしくて怖かった。
彼は鎌倉の屋敷に電話を入れ、父が亡くなったと、大塚に電話は入れて置いた。突然の旅立ちに大塚は言葉を失っていたが、弔いの用意をする、と言っていた。
車は楼閣塔ホームのスカイマンションへと向かっていた。彼は敢えて安全運転を心に決めていた。親の死は、覚悟をしていてもいつかは訪れるものだ。—だからこそ、安全に気を遣い、子が見事な弔いをしてやらねば。
彼は、ぐっと歯を噛みしめて、自分に勇気をため込んだ。彼女が傍で支えてくれるので、彼は強くなれるのだ。
彼は、彼女に頼みたい事が有る、と言った。
彼の名代、妻として、管理会社の間波磔さんや、今日会う筈だった三条や三条の事務アシストの居度端君に連絡を入れ、父が突然亡くなり、葬式が出たので、運転する彼の代わりに、この事実を正式に連携する様に、と依頼した。
彼女は快諾して、彼の妻として且つ彼のアシストとして、丁寧に且つクリアーな説明と言葉づかいで会社のコンタクトに電話を入れた。彼はホッとしながら、彼女の声を聴きながら、彼女が心を込めた、抑えた言葉遣いをする時、その声は彼を冷静にさせた。
彩のある過去の思い出が彼を包み、楼閣塔に着くまでの約1時間余は、妙に早く経過した。
管理会社の紹介で信頼出来る葬儀屋を見つけて、鎌倉への遺体搬送を依頼し、楼閣塔の地下の業者出入り口に車をつけてくれるように依頼し、楼閣塔の管理会社に遺体搬送の詳細は葬儀屋に言ってある、と伝えた。葬儀についても、両者に相談を入れる事とした。
葬儀屋は楼閣塔の出入り業者の一社で、老人の多いマンションの事情柄、この様な事には慣れていて、葬儀スタイルも色々なものがある、と話した。父の部屋で事務的に彼の遺体を引き取り、通夜の為に鎌倉に届ける事とし、その他の事は後程彼からの連絡を入れる事とし、彼が電話でその他の事務事項を電話やメールで片付けて、楼閣塔のマンションの隣人や管理者に挨拶している間に、彼女は掃除機を使って軽く父の部屋を軽く掃除をし、台所などで置きっぱなしのカップなどを片付けたり、ごみを捨てたりした。
ペットの犬が心配そうな表情だったので、連れていく事となり、犬用のキャリーバッグが見つかったのでそれに入れて、彼女が可哀相だ、鎌倉へ連れて行こうと言ったので、タローは彼と彼女が引取る事になった。
管理会社とも挨拶の上、2週間をめどにして退所としたい、とし、それまでは部屋はこのままで依頼して、葬儀場所の鎌倉へ彼は彼女と赴いた。
葬儀屋は彼の名刺を受け取り、自分の名刺を彼に差し出し、自分は根本と言う、と自己紹介し、鎌倉の屋敷にご遺体を棺桶に入れて用意してから届けるので、と住所と大塚の名前と彼の名前を訊いてご遺体を預かり、後程連絡予定となった。
人生の政である結婚の儀や弔いの儀は、調整とファシリテーションの集まりだった。謂わば、仕事でいつもしている事とは言え、彼女には彼の父の忌事なので、神経を使うものだった。
彼女は、車が鎌倉に向かう間、車の中で猫をキャリーバッグから出して暫し抱いたり猫に話しかけたりしながら、微睡した。鎌倉に出発当初、犬が怖がって鳴いていたが、大きなキャリーバッグの中で寝てしまったか、静かになった。
彼女が彼とアレコレ手配して歩くと、楼閣塔の部屋の掃除以降、彼女の顔色が悪く、少し彼女の血圧が上がった感が彼にはあり、心配だった。
犬は当初クンクン言っていたが、次第にバッグの中で静かになった。
猫のブルの方は上から目線で、飼主を失くした犬を見下ろした。
ブルをキャリーバッグから彼女の腕の中に出してやり、彼女の腕の中で彼女を癒し、微睡させた事に、彼は口元を弛ませた。ブルは彼女の腕の中で、運転する彼の方を見ながらみゃん、と鳴いた。
「マミィの事は俺に任せて、お前は運転をしろ」
とでも言ってるようだった。
男二人で彼女を支えているような気分だった。
「お前が猫で良かったよ。じゃなきゃ、生命賭けの決闘になってたよな」
猫は顔をかしげて運転する彼の頭を見詰めていた。
屋敷はひっそりとしていた。
彼女の電話で父の死を知った大塚執事は悲嘆に暮れて自宅に籠ってしまっていたらしい。女中や従業員達は皆、大塚や彼の父を自分の親のように感じていてくれた。大塚が部屋にこもった事で、屋敷内の雰囲気はどっぷりした鬱感が表面に漂っていた。
女中頭の明子が庭から門の入り口に駆けて来て、彼の上腕をポンと叩いてから彼女を抱きしめた。抱きしめられた彼女は驚いたが、気持ちは理解していた。少し後ろずさった彼女を彼は彼女の肩を支えながら、
「おいおい、明子さん」
と注意を即した。謝りながら彼女を手離し、彼女の顔を覗き込んで、明子は訊いた。
「…ホントなの?ホント?」
絞り出すような声で明子は彼女に尋ねた。
「ホントに?」
彼女は、頷いて、明子さんに
「朝早くに電話が楼閣塔から着て…それ以降、ずっとあちこち手配して歩いてるの」
「彼女、疲れてるんだ」
彼は低い声で、強く彼女の腕を掴んでいた明子の手を彼女から強い指先で離して、彼女の肩を抱いた。
「床に就くか?」
優しく尋ねる彼に、少し微笑みながら彼女は、
「ううん、大丈夫。明子さんとダイニングで話してきます」
と提案し、彼を瞳で見て、
「大丈夫よ」
と口唇で形を作って彼に伝えた。
頷きながら泣き出した明子の背を撫でながら、彼女は彼に振り返り、
「ブルちゃんを頼むわ」
と小さな声で依頼し、キャリーバッグを渡した。
彼はうん、と頷いた。鞄の中から、ブルが心配そうにこちらを見ていた。
ダイニングでは、女の従業員たちが集まっていた。屋敷だけでなく、村の中で農家をするものまで出て来ていて、いつも以上に女の人数が増えていた。皆に心強い微笑を見せながら、彼女が彼と猫を伴ってこの屋敷に着いた時には目を涙で腫らせていない者はいなかった。
「若、若奥様、この度は...」
と声を架ける者も見られた。
ダイニングでは、彼女が此処に来るまでの経緯を皆にまとめて伝え、今夜は通夜、明日が葬式、と暫時の予定を伝え、
「大旦那様が天へ旅立つのを手伝ってください」、
と愛情をこめて皆の目を見ながら伝えると、皆が有難そうに頷き、泣きながら悲しそうに同意した。
彼は、庭の外側で庭園を世話していた庭師や雑用の若い衆と話をしながら、ブルが入ったキャリーバッグを左手に、若い衆や他の従業員をダイニングへ集合させるように依頼し、彼女に遅れてブルと共に屋敷に入って、彼女と同様の説明をして、皆に有難う、と頭を下げた。
屋敷のオテル・グランデへの移行と増設、改設などの作業は着々と外側が進んでいた。裏から見ると父が守った屋敷には変わりなく見えただが、表側にオテルが改設中の看板を建てたりしたので、父の屋敷は変わって見えた。
大塚の妻の恵理子がオテル・グランデ側に連絡し、彼の父が急死したことを伝え、葬式などを手配中なので、暫く見分等は遠慮するように話し、オテル側も承諾して、作業員たちはとっくに作業場を後にしていた。
従業員たちは、父を入れた棺桶が届くまでに、掃除や庭の手入れをして整備し、手を尽くしていた。
彼女は明子と協力して、昼食を用意し、皆が食べられるようにおにぎりなどを用意した。自分の面倒が後になってしまい、まだ降圧剤を呑んでいないし、血圧も測っていなかった事に気づいたのは、午後1時に近かった。降圧剤は毎早朝、定時間に呑まねば、ふら付きが発症し、血圧が上昇してくる。
キッチンで自分と彼に用意した小さなお盆を持ったところで、大きなふら付きが彼女を襲った。花が急に枯れる姿をスピードで写真に撮ったように彼女は、お盆を震わせながらしなだれた。明子は傍でそのお盆を落とさないようにお盆を自分側に向かせるのが精いっぱいだった。
「あぁ、わぁっ、若奥様っ」
テーブル横でしなだれて倒れそうになる彼女に、大きな声で若い美代ちゃんと呼ばれる女中が叫んだ。
声を聞きつけて、彼が急いでキッチンに入った時、明子はお盆を彼女から受け取って何とかこぼさずにいたが、テーブル横に彼女が膝をつき、頭を垂れており、なかなか立ち上がれない様子だった。意識があるので、安心した彼はユーモアたっぷりに、
「こら、無理するなって云ったろ」
と優しく言いながら、彼女を自分にもたれさせて、
「立てるか?立てなければ持ち上げるぞ~」
と彼にしがみついて頷く彼女を、自分と一緒に立ち上がらせた。
彼は、意識が無い彼女を抱き上げて搬送、とならずによかった、と実感した。
彼女は青い顔で冷や汗だらけだったが精神的には安定しており、
「私、重いから持ち上がりませんってば」
と笑いながら、ゆっくり立ち上がれた。彼女はまだくらくらするのか、重心は彼に預けていたが、彼女が歩けるし、冗談に笑ったり出来るのを感じて、彼は心からホッとした。
—無理をしない事。
如月医師からの絶対命令を半分忘れかけていた自分を、彼は頭の中で叱っていた。彼は明子に振り返り、先程、落としそうになって明子が持ち直した軽食を載せた盆を指さし、
「俺等の部屋に行って、昼の食事を持って行って昼の用意と床を敷いて、彼女と俺に昼寝をさせる用意をしてくださいますか、それから、キャリーバッグから猫を出して、部屋の中で寛がせてやってくださいますか、すみませんね」、
と依頼し、頷きながら気遣う明子は頷き、猫の砂なども出すべく、美代ちゃんをついでに連れて出た。
彼は空いた手でテーブルの椅子を取って、彼女を座らせ、自分は隣の椅子を取って座った。
「大丈夫かな?ごめん、薬取らなかったな。俺、忘れてた」
「いいえ。私が憶えておくべきだったし」
「少し寝た方が良くないか?」
「お腹空いちゃって。ね、一緒にご飯食べて下さる?それともお忙しい?」
「ん?あぁ、喜んで。俺も朝っぱらからで、ちょっと疲れた。今、聴いてても分かったろうけど、いつもの部屋で昼と昼寝を取れる様に明子さんに頼んだから、寝転んで午後に少し休もう」
「うん。嬉し…」
照れ臭そうに彼に甘えて、彼女の顔色は青白かったが、桃色に変わった。彼は微笑んで、彼女を宝物の様に抱きしめた。
「若奥様がいてこその俺だし、ね」
彼は含笑いする彼女を抱きしめながら、呟いた。
§ 2. 暁
昼を食べ、薬を呑んで床で猫と彼と3人で一時間も昼寝をした彼女は、午後3時までには、体調が戻っていることを感じた。
寝不足は体調をただでさえ崩す原因となるが、高血圧症の患者には致命的なもので、彼女の専門医からは、どんな日程に於いても、朝晩の起床・就寝時間は一定化する様に厳しく謂われていた。今回、夜明けに義父の訃報で叩き起こされ、それ以降、日程が変更して、彼と二人で取る物も取合えずで外出していたことから、疲労が重なったので、昼食を取って、夫婦でゆっくりと昼寝したのは、寝ればいいと言うワケではなくとも、彼女の健康には好い方に動いた。
彼は、それを聴いて、心の底から安心した。この葬儀の手配で多忙になり、彼女が突然倒れて地元に搬送治療となったら、如月医師には必ず連絡がいくので、如月からどの位叱られるかと心に引っかかっていたので、彼には事の外、一安心だった。
「よかったよ」
はぁ~と彼は大きなため息を吐いた。
「きっとお父様が守ってくださったのね」
猫を抱いた彼女がそう言うと、さすがに彼も同意した。
大塚が部屋を訪ねて来た。
「若、若奥様、ちょっとだけ、宜しいですか」
布団を片付けようとする彼女に
「そのままで大丈夫」
と彼は言い、座っておいで、と彼は彼女を座らせ、猫を横に座らせた。
大塚はその様子を温かく見ていて、一息入れて、封書をだした。
「大旦那様が、手紙を残されていました。棺桶できる着物を選んでいたら、若と若奥様に、と封筒が。今まで、気付かずにおりました」
彼は封書を受け取り、読み始めた。封書の中は、和紙の古風な手紙が筆で丁寧かつ達筆に収められていた。
(後半へ続く)
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