濱口竜介『親密さ』日記 20240512

シネ・ヌーヴォで濱口竜介『親密さ』を観た。詩があり、詩人がいて、朗読会がある。劇中劇のなかで。その予兆として現実パートで突如、詩情が満ちみちた生から溢れ出す場面があり、実は常に既に導かれていたのだと、255分座っていて詩人は気づいた。途中休憩早く終われとこんなに思ったのは初めて。
午前1:50 · 2024年5月11日

ツイート。俺はここから考え始める。現実(パート)に詩が及ぼす効能について。それを濱口竜介が劇中劇でやったことに対して。

有名ではない詩人と、詩に全く触れてこなかった友人たちの関係性の描き方はかなり上手いけれど、詩人そのものの扱いは雑だというのが濱口監督っぽい、というか現実の詩人ではなくて、多分ホン・サンス映画で描かれる詩人像みたいなものを下敷きにしているから、装置として詩人がいる。詩人って肩書きがあればそれでいいような、現実パートと劇のスイッチが詩人の存在であって、詩人がどうその場所にいるか、その振る舞いは対して重要ではない。つまり、詩人が詩人でいるのは、詩のためではなく、その劇中劇のためだったりする。詩を書かずにはおれないから詩人なのではなく、劇を成り立たせるため詩人になった(現実パートで劇のビデオ録画にあった詩人が馬鹿にされて喧嘩になる場面が実際の劇ではカットされていることからもそう見える。脚本のリライトのアレで削除されたのだろう)。だってこれは詩人の物語とはいえない。劇中劇の装置として詩人が動かされている。機械だ!ちくしょう!でも大好き!笑

大好きなのは、ツイートでも書いたが、劇中劇にたどり着く前に詩情が満ちみちた生から溢れ出る瞬間があったから。脚本に書かれた詩が何度も現実パートで発されるが、そこではない。劇に出演せず韓国に義勇兵として行ってしまう俳優が、兄に命を助けられた過去を話す場面。情景が真に迫る凄みを淡々とした口ぶりで伝えていく。その詩情(だから観客は誰も彼を止めたいとは思えない、その説得力は詩情によるもの)。それができると信じられていたからこそ、彼は詩人役でキャスティングされたのだろう。その引き出され方が絶妙だった。ただそこから「良い話だなあ〜〜〜」というクソみたいな台詞で場面が変わり、主役二人の痴話喧嘩がはじまるその断絶!その作家性よ!だから劇中劇で詩人があんな扱われ方をされても、わかるよ、と思う。ポエジーを遠ざけたいんだ。いいよ、オッケー!
(それでも詩が現実を侵食しているのを俺は見た)




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