『20世紀ノスタルジア』日記、20240502

ポール・オースターが亡くなったから『スモーク』を観始めたが、冒頭でこれ好きじゃなかった映画だと思い出してやめた。文庫は全部売ってしまったし買い直すとして、大学生の頃めちゃくちゃ読んだな…と想いを馳せるだけにいまは留め、原将人『20世紀ノスタルジア』を観た。

広末涼子のデビュー作というのが注目されがちだが(妻はそれで知っていた。実家にビデオがあるらしい。)、23歳で日本縦断を8mmで収めた伝説のロードムービー『初国知所之天皇』を撮った原将人が映画製作を題材に商業で撮るんだからもうやばいに決まっている。しかもこないだ観た原将人脚本の大島渚『東京戦争戦後秘話』だって『20世紀ノスタルジア』と同じく自主映画製作の話で、謎の男「あいつ」の後を追うと同時に、その政治性や撮影によって「あいつ」自身を浮かび上がらせていく、それが結局自分だったという結末、ではないことを詩でやろうとしている俺は結局「あいつ」になるのではないかという危惧もありつつ。なんて詩人の自分を重ねて観ることで楽しんだりもできたけれど、この広末は宇宙人にとりつかれたのだ。俺にはどうすることもできない魅力のかたまり。

「チュンセ童子、それでは支度をしましょう。」
「ポウセ童子、それでは支度をしましょう。」

宮沢賢治「双子の星」


主人公たちに宿る宇宙人(という設定)のチュンセとポウセは宮沢賢治の『双子の星』から取っており、これもあわせて読んだが、大烏がヘンに去年俺が文芸同人誌しんきろうに書いたクソ鴉(「諦めるな、クソ鴉よ。俺たちの登場に慌てふためく強盗集団に愛の裁きを」)と共鳴してしまい、不意に湯が沸いたので珈琲をタンブラーに入れて飲んでいる。蓋には取っ手が付いており、持ちやすくて気に入っている。珈琲豆の産地をイメージした絵が彫ってある部分とプリントされた部分があり、その境目を撫でるのが好きだ。

チュンセ童子もポウセ童子もとめるすきがありません。蠍は頭に深い傷を受け、大烏は胸を毒の鉤でさされて、両方ともウンとうなったまま重なり合って気絶してしまいました。

宮沢賢治「双子の星」

俺のことをクソ鴉と呼ぶのはボスだけだった。一週間ほど前に特集上映されたルチオ・フルチの『野獣死すべき』に憧れたミーハーなボスだ。あんなホラー監督が撮ったマフィア映画のどこがいいのか。フルチはジャンルテロリストだなんて呼ばれていたらしいが、それを真に受けて、ボスは自分のことをテロリストと呼んでいた。それはただの犯罪者だ。アホが。

素潜り旬「諦めるな、クソ鴉よ。俺たちの登場に慌てふためく強盗集団に愛の裁きを」

似てねえ!何が共鳴だ。不意にお湯が沸いたのは偶然に過ぎないが、そんな偶然を愛でることで生活は豊かになる気がするし、その偶然は映画にだって必要不可欠なものだったりする。撮影や編集において。

「あかいめだまの さそり
ひろげた鷲わしの つばさ
あおいめだまの  小いぬ、
ひかりのへびの  とぐろ。

オリオンは高く うたい
つゆとしもとを おとす、
アンドロメダの くもは
さかなのくちの かたち。

大ぐまのあしを きたに
五つのばした  ところ。
小熊のひたいの うえは
そらのめぐりの めあて。」

宮沢賢治「双子の星」

映画を誰かと一緒に撮る歓びで溢れている。しかしそれはチュンセとポウセが一緒にいる時だけである。チュンセはひとり、東京を孤独な森(それぞれの木を見ようとしない)として撮り、ポウセはチュンセが去ったあと孤独な編集作業に取り掛かる。過去の孤独と現在の孤独が交錯し、それが繋がりとして描かれるのではなく、あくまでも映画の魔法を信じるための装置として描かれる。だから時空を超えたミュージカルなんてものが生まれるのだ。

寂しさのなか タイムマシン飛ばした

『20世紀ノスタルジア』劇中歌「宇宙人のキミへ」

この歌詞が頭から離れなくなった。寂しさのなか、タイムマシンを飛ばすその感情のやり切れなさよ!ああ!配信されたばっかりの『タイムパトロールぼん』を観なくちゃ、今すぐ!



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