20240407 ショーケンと朗読。

日当たりのいい
しあわせな場所で
車輪が赤く錆びて行く

高見順「車輪」

お世話になったギャラリー兼カフェのクロージングパーティーへ今日も家族で行った。子どもと全力で遊んで疲れた。だるまさんがころんだはいちいち止まらないといけないからしんどいし、タッチしたら全力で走らなければならない。当たり前のことを書いている気もするが、これはやってみないと気づかないもので、あ、これ、後にひびくなという心の声が乱反射して、いま俺はとても眠い、みたいな。
冒頭で引用した詩は高見順『三十五歳の詩人』から選んだ。ずっとあったらいいのにと思っていた場所がなくなるまでの時間が確かに此処にあった。取り壊されるらしい。そして俺は来週三十二歳になる。三十五歳になったら、『三十五歳の詩人』から「三十五歳の詩人」を引用してなにか書こうと思っている。

 ショーケンと小松政夫と水谷の三人は、ビクビクと怯えながら、表を見張っている。
 その時の三人の会話は台本にない。ショーケンの「何か言ってみろ」に小松は言った。
「紅白歌合戦についてしゃべりあったら、いいんじゃないか」
「おお、それいいな」
 ショーケンが、さっそく小松に訊いてきた。
「それよりよォ、おまえ、歌謡曲好きか」
「アグネス・チャンなんか、いいんじゃない」
「おれは、美空ひばりが好きだな」
「あれ、いいな」
 そこでショーケンは不安そうに口にする。
「おれは、ちょっと心配があってさ、紅白歌合戦に出られるかな……」
「大丈夫なんじゃないの」

大下英治『ショーケン 天才と狂気』

ショーケンになりたさ、が日に日に高まっている。ずっと好きだったショーケン。ただ亡くなったのがあまりにショックで、しばらくショーケンのことを考えないようにしていた。評伝などが出たら必ず買ってはいたが。先日、本屋でたまたま見つけた『ショーケン 天才と狂気』の文庫、単行本を持っているので買うか迷ったけれど、あまりにヴァレリーを読みすぎて疲れていたので、なにか滾るものをいますぐ欲していたのかもしれない。ハンバーガーを食べながら読んでいると、「キムタク持ち」している指が脈打つのを感じた。ショーケンが俺の人生に帰ってきた。そこからの俺はもう、ショーケンが三十二歳の時、何をしていたかを調べるために該当ページを読み、『君は海を見たか』で三十六歳の父親役をやっていた。

ショーケンは思った。
<おれが早めに離婚したり、子供と別れたりしているからかもしれないな>
ショーケンは腹を決めた。
<これはテレビを使ったおれの懺悔とするか……>

大下英治『ショーケン 天才と狂気』

というわけでいまから以前のCS放送を録画していた『君は海を見たか』を観ることにする。
第一話、観てきた。俺の四十五分はあなたの一秒だ。ショーケンの貫禄たるや。俺と同い年だとは思えない。これ、親にとっては、なかなか辛い話だ。仕事に一途な当時の普通の男性を演じるショーケンの抑えた芝居と倉本聰の脚本の相性が良いし、ここからたぶんショーケンは子ども想いの父親に変わっていくそのグラデーションで魅せていくのだろう。そして次回予告。あえて編集を加えず、ワンシーンそのまま見せて良いところでブツ切りする手法はめちゃくちゃ次が気になるからこれはこれで良いのだと思う。

正一、君の描いた設計図、見せてくれ。

「君は海を見たか」ショーケンの台詞

ショーケンの何を言っているかわからなさが好きだ。台詞を喋りのニュアンスで伝える。台詞は重要だけれど、台詞だけが伝われば良いというわけでもない。ショーケンにとって、その喋りが重要なのだったりする。これは朗読をする時の俺もそうで、詩というテキストに対して、どんな喋りをするか。どう詩を発するか、が重要なのであって、詩そのものは詩集を読んでくれればそれで良い。俺はその詩をどう発するかが問題なのだ。だからあえてテキストをズラす。それは間でもあり、「朗読ならではの改行」であり、余白である。その時の身体のリズム、心臓のビートに従い、それもさらにズラしていく。これは推敲でも同じ。俺は朗読をしながらあらためて推敲をしている。


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