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原田マハ『リボルバー』

書くか。夏だし、読書感想文。

一日で瞬間的に読破してしまった、黄色い本。

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原田マハ『リボルバー』(2021年5月、幻冬社)

「ゴッホのひまわり」と聞いて、みんながきっと想像するであろうこの黄色い絵画。もはや一般常識を超えた先にある潜在意識として「ゴッホのひまわり」はわたしたちの脳内に刷り込まれてしまっているけど、そんな絵画を表紙カバーにしちゃうなんてすごい度胸。原田マハさんか、納得。気づいたら手に取って、レジに並んでいた。

こちら、表4も素敵なの。

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ポール・ゴーギャン「肘掛け椅子のひまわり」

正直、美術知識が乏しいわたしは、ゴーギャンの絵だなとわかったくらい。でもこのわたしの知識の浅さが読了後に強烈パンチになってわたしに襲いかかってきた。この二者の知名度の高低差が大きければ大きいほど、この書籍のデザインが持つメッセージ性が強くなるように思う。

原田マハさんの豊富な知識から織りなされるゴッホとゴーギャンをめぐるミステリー。

ゴッホは一年ほど前に本を読んだり画集を買ったりしてゼロベースの知識ではなかったけれど、19世紀の西洋美術なんて「知っています」と言える土俵に立つまでに一体どれだけ勉強すればいいのと思うほどの巨匠勢ぞろい。柱か?柱合会議か?ってなる。

そんな状態だから、正直ストーリーにちゃんとついていけるか、わかった気になって読み進めちゃうことがないか不安だったけれど、そこは原田マハさんの豊富な知識と巧みなストーリー展開で振り落とされることなく、読了。絵画だけでなく情景までをしっかりと思い描くことができるみずみずしい一冊だった。

オーヴェル=シュル=オワーズどころかフランスにも行ったことがないけれど、一面に広がる麦畑をこの目で見たことはないけれど、ゴッホとゴーギャンがお互いの葛藤の中でもがけばもがくほど、対比として美しい情景が目に浮かんだ。

一枚のタブローに、まさに生を詰め込んだふたり。たった二ヶ月の共同生活で大きすぎる才能がぶつかって、惹かれて反発して、その結果の大きな二つの孤独が生まれた。天才が孤独なのは、苦しみを分かち合えるのは同じ天才でなければならないのと同時に、互いの才能を食ってしまうから、最終的に才能のパワーバトルになって圧死したほうが離れて行くのが世の方程式なのかな。

喜び、充足感や将来への希望だけでなく、悲しみ、喪失感、嫉妬や怒り、その他人生で感じ得るすべての感情の最高瞬間風速をのせているのだと、絵画とはそういうものなのだと改めて感じた。人生において悲しいこと、失うことはたくさんあるけれど、その悲しみに打ちひしがれずに作品に昇華させなければならない、させずにはいられないことは苦しみが何割増にもなるのだろう。感情に向き合って、苦しんで生み出されたこのひまわりが、世界中の意識に刷り込まれている。

そこに苦悩が乗っかっていることをいったいどれだけの人が知っているのだろう。わたしは知らなかったし、知ったいま、このホヤホヤでグズグスなふたりへの同情や何倍にも膨れ上がったわたし自身の劣等感を湛えて作品を見たいと思った。

苦しんで吐き出したものが美しいということ、誰かの生きる希望や意味になっていること、その事実に130年前の彼らが救われますように。

わたしはもっといろんな人の人生を知って、たくさんの感受したい。苦しむことだけが人生ではないけれど、苦しみや寂しさの終着が優しさや人としての深みの尊さでありたい。

ゴッホとゴーギャンをめぐるストーリーではあるけれど、ゴッホの弟のテオも二つの才能にはさまれながら、決してつぶすことをせずに大切に大切に向き合うことを自らの使命として全うしている。テオの審美眼と支援力がなければ、ゴッホはもちろんゴーギャンも有象無象の一人として淘汰されていたかもしれない。人のめぐり合わせのおもしろさを感じるとともに、時に審美眼は天才よりも大切なのではないかと思う。

テオはビジネスの範疇を超えた支援であったが、作家と編集者の関係性と近いものがあるといえる。編集者はジョブだし、才能にあぐらをかいて〆切守らない人たちはビンタだが……編集者もビジネスを超えた思いでジョブをすることは大いにあると思うし、この思いがないと本なんて作れないよなぁとも思う。本を作るなんて令和のこの時代、狂人のすることだしね。そんなことはわかった上でこちらも本を作っている、狂人だから。

ただ、狂人でいるかどうかはわたしが決めることだから、それを会社をはじめ組織に求められたら瓦解する。令和のこの時代において。信念を持って狂っていきたいと思った。

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久方ぶりのブログ更新、こんなふざけた読書感想ログで大丈夫か……? まぁ誰かに読まれることを期待しているわけではないけど、ネットの海に垂れ流す以上、ちょっとだけソワソワしてしまう。日記も読書感想文も誰かに見られることを想定していないのに、誰かに向けて書いたこと前提の文章になってしまう現象、名前あるのかな。

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