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心の掃溜め

 普通、愚痴や惡口、文句、等々は他人に云ふべきでない、といふ通説がある。聞かされる人の立場になれば分かることだ。

 しかし今囘は敢へて、さういふ内容で書いてみる。讀者のことは考慮しない。

 私は時々、生きてゐるのが嫌になる。さういふ時、大體は夜、何か上手くいかないことがあつて、しかしそれを解決するのが困難で、それを發端にこれまでの不幸な生立ちや半生を囘顧し、そして未來に悲觀的な豫想が立ち…。といつた感じである。

 この一聯の思考を、この文章では『考へごと』と稱することにする。

 『考へごと』は一晩で終はることもあるし、何カ月も續くこともある。だがこの『考へごと』について他人に話すことは、これまで憚られてきた。理由は上記にもある通りだ。

問題その1:生活

 生きてゆくには金が要る。金を得るには、働かねばならない。

 小學生の頃から現在に至るまで、私はやりたい仕事・就きたい職業、といふものがあつたことが殆どない。幼稚園兒の頃は電車の運轉手に憧れてゐたが、小學校に進級する頃にはどうでもよくなつた。大學では建築を専攻したが、そこで分かつたのは、私は建築士になるべきではない、といふことだけだつた。

 縁があつて今の職場に新卒入社した。仕事内容は某システム設計で、これもそれがしたくてやつてゐるのではなく、たゞさういふ部署に配属されたから、に過ぎない。

 ところで、私は何かを創る、クリエイトするのが好きだ。音樂や繪や文章、それに取り組む爲の時間と金が必要だつた。その爲に就職したやうなものだ。學生時代は時間はあつたが、金がなかつた。働き始めれば狀況は改善するだらうと思つてゐた。

 働き始めた頃は、これまで觸れてこなかつた分野の内容で苦勞した。しかし慣れれば樂になると信じて頑張つた。

 ところが慣れてくると、任される仕事量が増え、忙しくなり、餘裕がなくなつてきた。週末には疲れ果て、15〜28時間起きられず、貴重な休日を寢るだけに費やしてしまふ。創作の氣力はない。

 感情が死に、好きだつた音樂も退屈。映畫も面白くない。食事は…億劫だが腹は減るので仕方なく食べてゐる。次第に、私が創作などしたところで無意味であるとすら思はれてきて、働いて寢るだけの現狀が悲しくなる。

 この生活があと何十年も續くなら、死んだ方がマシだとさへ思ふ。しかし、經濟的な理由から、仕事を辭めることにも恐怖感がある(詳細は後述)。

問題その2:お金のこと

 私の不幸は、實家が貧乏である點が大きい。うちよりも貧乏な人たちは澤山ゐるだらうし、それでも努力して上手くやつてゐる人々がゐることも知つてゐる。でもここではそれを問題としない。

 實家が貧しい爲、大學は國立以外は許されなかつた。嫌だつたが、大學寮の五畳一間(まるで獨房)で四年間を過ごした。その上、學費は奬學金を借りて、自分で支拂つた。

 そんな狀況だから、私の暮らしも貧しく、自由に好きなことを選擇する餘地はない。

 就職活動の際、本當は就職なんかしたくなかつたから、仕事を決めず(どこにも就職せず)に、やるべきことを探すのも手段としてはあると思つた。でもそれは不可能だつた。奬學金の返濟が滯れば、連帶保證人の親戚に迷惑をかけてしまふ。

 そんな半生だつたから、金が無いことで生き方に制約が生じることに、大きな悲しみを覺える。郵便受けに何かの請求書が入つてゐるだけで氣が滅入る。貧乏だからといふ理由で、諦めなければならないことが澤山ある。

 先日、實家が自己破産するといふ報を聞き、變へることの出來ない運命のやうなものを感じた。この儘生きてゐてはいけないやうな氣がした。

問題その3:孤獨

 孤獨であることと寂しいことは別である、と誰かが云つてゐた。その通りであると思ふ。

 幸ひに、私には素晴らしい友人たちが多くゐる。世間的には若干、顔が廣い方かもしれない。若い人、同年代の人、歳を重ねた人…。彼ら彼女らと、それなりに良い關係を、その氣になれば築くことができる自信はある(特に歳上には、氣に入られる傾向がある)。

 健全な人附き合ひは生きることの喜びを感じさせる。價値ある交流は常に新しい氣づきを得られるし、何より面白い。喜びは倍になり、悲しみは半分になる、とはよく云つたものだ。

 一方で、私は獨りでゐることも好きだ。いや寧ろ、獨りの時間がないと辛い。もしかすると私は“人嫌ひ”なのかもしれない。そんな私に孤獨は心地よい。自由氣儘。誰かのことを考へる必要がない。

 大事なことは、人附き合ひの時間と孤獨の時間のバランスだ。極端になつては、どちらにせよ不幸になる。どんなに仲のよい友人でも、朝起きてから寢るまで顔を合はせ續けてゐたら氣が滅入るだらう。逆に孤獨が過ぎる狀況では、『考へごと』が止まらなくなつてしまふ。要するに我儘なのだ。

 では視點を變へて、私が理想とする他者との附き合ひ方とは如何なるものか、考へてみた。自分でもまだわからないが、それは多分、格好つけずに素を現せ合へる、そしてそれが互ひに不快でない、關係性であらうと思ふ。

 私は我儘なので、そんなことは不可能に近いとわかつてゐる。そんなことが出來る人(女性が好ましい)との出逢ひを期待もしてゐない。友人との關係性にそこまで求めるのも變だし、私は女性に好かれない。まあ、こんな厭世的な文章を書いてゐるくらゐだから、當然だらう。ゆゑに、死ぬるまで孤獨であることを豫想してゐる。

問題その4:自らの無力さ

 狀況を變へる爲に必要なことは、ぼんやりと承知してゐる。

1. 仕事を變へる
2. 金を貯める

 たゞ轉職すればよいといふことでもない。サラリーマンである以上は、給料の大小や業種の違ひこそあれ、本質は同じことである。やはり目指すべきは獨立・個人事業での成功だ。

 しかし私自身に何か金になる技術がある譯でも、資格を持つてゐる譯でもないので、いろいろと困難がある。生涯勉強、といつて新しい何かを學ぶことも考へたが、現實的ではない(完全に諦めた譯でもないが)。

問題その5:將來の展望

 上記の理由から、これまでの私の生き方はなかなか變へることが難しい上に、苦痛に滿ちたものであることが避け難い。この儘いくと、やりたくない仕事を惰性で續け、金はなく、孤獨の儘、そのうちに死ぬ。

 これまでも、なんとか狀況を變へようと努力はしてきたし、上手くいつたことも多少はあつただらう。

 ところで、兩親の姿は私の丗年後の姿に重なる。理解出來る部分・立派だなと思ふ部分がある一方で、これは私には出來ない・かうはなりたくないと思ふところだつて、當然ある譯だ。でも着實に、私は親の跡を辿つてしまつてゐるのがわかる。

 諦めることで樂になる、といふ方法がある。今のところ、全てを諦めた譯ではない(寧ろ、まだ向上心は捨てまいと足掻いてゐる)が、いずれそれをした時、私は何を感じるだらう。

問題その6:僻み根性

 そんな感じで『考へごと』に耽つてゐる狀態の時に、周圍の上手くやつてゐる人々を見るのが辛い。なんといふことだらう。

 樂しさうに遊ぶ人々を見ては、「彼らは暇なのだ」とか「酒を飲むことだけが生き甲斐の殘念な奴ら」と決めつけてみる。若いアベックを横目に「くだらない人間同士がくだらない關はりあいをしてゐるな」といふことにしてみたりする。

 實際のところそんなことはわかる譯がないので、最終的には自らの愚かさが際立ち、餘計に情けない狀況になるのだ。

問題その7:一時的な逃避

 私は昔から、浪費癖がある。以前は樂器、最近は服や家具など、氣に入つた物を蒐集するのが好きだ。値段は餘り氣にせずに買つてしまふ。

 良い物は自分を高めてくれる氣がするし、長く使へることも嬉しい。物の良さは價格だけでは決まらないが、安いことだけを理由にして物を買つてみても、結局は錢失ひ。寧ろ價値ある物こそ若いうちに、入手するべきだと思ふ。物を見る目も養ひたい。

 しかし時々、感情に任せて不必要な物を買つてしまひ、後悔することがある。これはたゞ買ふこと・金を使ふことが氣持ちよくなつてゐるだけだ。これは一時的な快感に過ぎず、私の本意ではない。

 また、酒を飲むこと・贅澤な食事も同樣。その時は氣分が良くても、生産性のない消費であることに後々氣づかぬこともない。

 これまでの半生(反省ばかり)はそんな感じだつたが、そもそも上記にあるやうに私は基本的に貧乏なのだから、有り金を殘らず使つてゐたらそのうち大變なことが起きる可能性もある。

結論

 以上、思ひつくことの一部をつらつらと書きつらねてみたが、そんなに問題か? といふ氣もする。

 逆に私にだつて、世間一般よりも優れてゐることがあるだらうし、私自身が知らない社會貢献の實績も、もしかするとあるかもしれない。今の悲惨な狀況だつて、數年後には變はつてゐる可能性もある。

 人間の幸せ・不幸せは、その人の感情が決めることだ。他人と比較せず、なるべく自分の基準で物事の良し惡しを判断したい。そして思ふ通りの生き方をしたい。たとへ今はむづかしくても。

 心の掃溜めを垣間見せるやうな文章に價値があるかわからないが、實驗的に書いてみた。後々の笑ひのネタの一つにでもなれば幸いである。

令和5年5月25日
「心の掃溜め」完

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