小説を書いて感じたこと
脚本家・壽倉雅(すくら・みやび)でございます。
先月末から、各種小説投稿サイトにおいて、過去に私が脚本用に書いた作品『女たちの開城記~愛に満ちるとき』を小説化したものをアップしています。
小説家になろう
https://ncode.syosetu.com/n9788jr/
全て同じ文章をアップしていますが、今回は『小説』というものを執筆した率直な感想を書きたいと思います。
どう書いて良いか分からず、地の文に苦戦
元々『女たちの開城記』は、脚本として執筆したものです。
そのためセリフは全て、脚本で使っているセリフをそのまま流用し、主に執筆に時間をかけているのは、説明文や描写等の地の文です。
脚本のほうでも、ほとんどナレーションがなく、また地の文が少なめでセリフが多いため、地の文をどう書いて良いのか苦戦しています。
専門学校時代、小説執筆の授業がありましたが、本当に苦手でした。
初めは説明文や描写をなるべく書くように心がけ、セリフは最低限にしようと意識しているのですが、やはり途中からはひたすら会話が続いてしまい、シナリオの時のように、セリフの前に登場人物の名前を入れないと誰が話してるのか分からない状態になっています。
そのため今回も、セリフの前後に「と、〇〇が話した」「〇〇がそう告げると……」など、そのセリフを誰が話したのかを伝えることが最優先になってしまい、動作や感情の描写が上手く表現できていないような気がします。
さすがに、上記のような表現が続くとくどいので、言い方や動作をプラスで説明して、「〇〇は憤然と……」など、脚本の時に使ったト書きを再流用するようになりました。
まあ、これが良い書き方とは思えないのですが……。
場面転換は、一旦脚本と同じにしている
小説だと、いきなり本文の途中で回想になったり、以前の出来事を説明する描写や場面が出てきます。おそらく、こういうのを映像化したときに回想シーンという形で見せるのだと思います。
今回、『女たちの開城記』では回想シーンというものが一切なく、過去の出来事もひたすら登場人物がその場で説明するという状態になっているので、回想シーンはないにせよ、おそらく小説では説明文や描写で表現するところを、私は全て登場人物のセリフとして表現をしています。
また、小説の場合だと主人公目線の三人称視点の書き方が多く、同じ場面や場所が続くことがあります。映像のようにフラッシュや回想、カットバックによる場面切り替えという表現はあまりなく、一言の説明だけで済むことが多いと思います。
というのも、一言の説明だけで終わらせるということは、本編上そこまで重要ではないからです。
私も、普段の脚本ではあまりカットバックは使わないのですが、やはりドラマや映画などの映像を意識すると、あるワンシーンをちょっと見せたかったりしてしまうわけです。それを小説で表現しようと思うと、セリフではなく、ほぼト書きと同じように、そこに出てくる登場人物が何をしているのかをそのまま書くことになります。
小説表現としては、もしかしたらこれはナンセンスかもしれませんが、小説の中でも脚本をつい意識してしまうと、どうしても小説ではあまり見受けられない小刻みな場面転換が出てしまうのです。
がっつりと公に小説を書くのは、フリーペーパーの連載小説を書いて以来約5年ぶりとなりますので、当然腕は落ちていますし、連載小説でもやはりセリフが多くなっています。
来年は、脚本の小説化、つまりノベライズ化ではなく、一から小説として物語を作っていきたいとも思っています。
場数を踏んで、挑戦をすること。
『ただ、紡ぐ。』
これに尽きると思います。
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