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最近のこと(適応障害発症から1年経っちまった)


書けていなかった。

「今日書いたら毎月書いたよ記録更新だよ!」とnoteからの煽りが届いたので、記録を途切らせてはならん!と、意地で書いている。

2ヶ月前くらいから、相も変わらず落ち込むのが得意な自分の精神をなだめすかすのに忙しかったのだ。世話のかかる子どもをひとり抱えている気分だ。

そうこうしているうちに、適応障害の症状が出始めた頃から、季節が一周してしまっていた。重い、一年って、重たい。

そんな今日この頃の、何でもない暮らしや考えたことをだらだらと綴ることで、毎月投稿記録を更新していく。途切れるのはなんか悔しいので。

 




もう一年も、経ってしまった



「もう少し精神に余裕ができて、”若い今を鬱々と過ごすのってもったいないから前向こう”って、思考のベクトルを変えられるといいよね」


ブルーなマンデーを、どの世界のどんな海や空よりもブルーな月曜日を、どうにかこうにか乗り切ったその日の帰り道、私の顔は涙でべしょべしょだった。

彼のいる家に帰るまでになんとか涙をしまおうと、家の近くの公園でひと休みしていたのだが、くるわくるわ、犬が。さんぽ犬がひっきりなしにやってきて、涙でべしょべしょなアラサー女を不思議そうに見ている。

これじゃ涙に集中できんわ!と、諦めてべしょべしょのまま帰宅した私が、「もう1年も経つのに全然良くなってない」とこぼした時、彼はそう言った。

この世の全てがネガティブ変換されるまじないにかかっている私はその言葉を、「いつまでクヨクヨしてるんだよ…」としか聞きとれなかった。

聞き取れなかったけど、その喝が効果を見せて、「ま、今後元気であれればいっか」とか、「過ぎたことでぐるぐる考えてても仕方ないか」と、久しぶりに過去への執着を手放すことが、今はできている。



これは、「要は気の持ちよう」みたいな浅はかなことを言いたいんでは全くない。精神疾患は脳のバグだ。脳にバグが起きてしまった過去もちゃんと事実であって、それは気持ちとか気合いでなんとかなるもんでもない。脳も臓器だ。

一方で、脳のバグは放っておいたらバグのままだ。あんまり自然には治らない。仕事をお休みできて、全く負荷のない状態を長いこと作り出せれば自然と回復へ向かうのだろうが、私はお金が欲しいので働いていたい。

となると、やはり放っておいてもだめなのだ。なにかしら手を打たなくてはならなくて、それは待っていても提供されなくて、バグを治す構造を自ら生活の中に構築するしかないのだ。


なんかそれに、改めて彼の言葉が気付かせてくれた。もう1年も経ってしまったけど、この1年は私にとって必要なものだったんだろうし、避けられなかったんだろうし、全力だったんだろう。

そのことをまずは受け入れて、じゃあこれからよく生きるにはどんな考え方で、どんな生活を送ったらいいんだって話だ。私は私を諦めない。

すぐにへこたれそうになる自分だからこそ、心地よく生きられるような仕組みを日々に取り入れてやってこう、そう建設的な思考に戻ってくることができた。


ま、また何度も落っこちるんだろうけどさ、何度でも立ち上がって歩きなおせばいいさ。



自分を程よく諦めること



仕組みその1、諦める、だ。

去年の9月に症状が出始め、今年の1月から2か月間休職し、同じ仕事に復職して5か月ちょっと、なんかまた、以前の自分みたいながむしゃらな頑張り方ができるような気がしてしまっていた。

できるような気がするという理想と、でもできない現実のギャップが苦しくて、苦しいことに脳のリソースが割かれてしまって仕事がうまく回らない。最近はそんな感じで居心地が悪かった。

いや、居心地が悪いなんて生易しいもんじゃない、もっとグロテスクに病んでいた。不安と恐怖にほとんど支配されてしまうことも多かった。


今は、デスクにはこんなメモが置いてある。


デザフェスでお迎えした小物たちと一緒


拍子抜けなのだが、ある日仕事のタスクを分解して、各タスクの時間を見積もって、小さく見積もった自分のリソースと納期とを照らし合わせてスケジューリングをしたら、途端に気持ちが軽くなったのだ。

どうやら私は、意識的にブレーキをかけないと、目の前に見えていることを全て一気にやりたくなってしまうらしい。でも今の私は、同時に何個ものことは出来ない。ひとつずつしか進められない。


休職したころに一度「何でもちゃんとできる自分を諦める」ことができた気がしていたが、仕事に復帰してその心がどこかに行ってしまっていた。

もう一度諦めて、今の自分と向き合って、自分のペースを守っていきたい。

「無理したらできる」を「できない」に分類し続けたい。




這い上がりたいここ最近の習慣



元気な心は元気な体から。そう思って最近は生活にヘルシー習慣を取り入れたりしている。

7月から始めたピラティスが続いていて、まだ2カ月だけどすでに変化が現れている。お腹も二の腕もお尻も、しゅっとしてきた。ぴったりだったジーンズがゆるい。体も重たくない。ピラティスすごい。週に一回しか行ってないのに。

体の変化って純粋に楽しいし、先週は出来なかった動きができるようになる達成感もあって、生活に少々のハリとコシが生まれた。

そしてお盆明けからは、毎日朝晩10分ずつ、Youtubeを見ながらヨガをしている。体をほぐすのってこんなに心地よかったんだ~って、なんかきれいな感情になるし、たぶん自律神経も整ってる、知らんけど。

B-Flowのまりこ先生の声かけが心地よくて、超ずぼらな私でも続いている。今ではまりこ先生の声を聞いただけでリラックスできるパブロフに進化した。おすすめです。




そしてどこかで、おそらくツイッターで、「鬱は腸をどうにかしろ、生の野菜と果物を食べろ」という言説を見かけ、毎朝フルーツでスムージーを作って飲む生活を始めた。

朝は食欲がマイナス100の私だが、意地でフルーツを刻んで、ずいぶん前に買って眠っていたブレンダーでガーってやって、意地で無理やり飲み込んでる。最近の我が家の朝には、しかめっ面でスムージーを飲む女という、なんかちぐはぐな光景が現れる。

はじめて一週間くらいで、便の調子が良い時が増えたような?そういえば毎日便が出てるな?とう実感が出てきたが、ポテチとかパスタとか食べるとそれもすぐに崩れるのが悔しい。

腸がデリケートすぎる。こいつに忖度して生きてたら私はこの世のほとんどの食べ物が食べられなくなる。そんな自身の腸に怒りが沸きながらも、スムージー生活を続けているという自負による小さな自尊感情はありがたいので、もう少し続けていく。


それから、図書館に通い始めた。私は本のある空間に行くとなんか心地よいので、週末は積極的に書店などに赴きたい。

でも、他にもやることがあったり、ちょっと家から遠いなって億劫になったり、サボりがち。

そこで編み出したのが、図書館で本を借りることで、返すために絶対にまた図書館に行かなくちゃいけなくなるシステムを利用した、強制図書館通いプロジェクトだ。

まずはムーミンを読もうかな。ムーミンは実は可愛いだけじゃなくて、人生を教えてくれるらしいので。これからもどしどし人生を学んでいきたい。


無理は禁物だけど、なにもしないんじゃ良くならないので、これくらいならできるやろってことを続けていこうと思う。無意識に生きてたら不健康まっしぐらな固体、生物として弱すぎるだろというツッコミを自分に入れながらも、このハードは死ぬまで変わらないので仕方なくこいつで生きてやるとしている。

来世、万が一でもニンゲンに生まれるんだとしたら、精神と胃腸が強い個体を与えられたい。でも第一希望はネコです。


***

9月は、毎週記事をあげよう。決めた。決めたので、やる。私は決めさえすればできる子なので。できます。やりたいんです、やらせてください、ここで働かせてください。

なにげなく書き始めたら、新たにやりたいことが決まる。これが書くことにいいところだ。note万歳。いつまでもあってくれよなインターネット。



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